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【時視各角】韓国大統領の支持率、言葉だけでは上がらない

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が9日、ソウル竜山大統領室で開かれた尹錫悦政府2年国民報告および記者会見で記者の質問を受けている。 大統領室写真記者団

就任2周年を迎えた尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の韓国ギャラップ支持率(職務遂行に対する肯定的な評価)が24%だったことに関連し「第6共和国以降、大統領の同じ時期の支持率で最低」という記事があった。これを見て感じたことだ。

まずは「第6共和国」。ギャラップリポートには特に言及せず、盧泰愚(ノ・テウ)大統領から登場した。この場合、普通1987年体制と表現してきた。今回は「第6共和国」が多数だった。「第7共和国に改憲」という野党圏フレームが通用しているようだった。2つ目、就任2周年を特定したが、全体を見るうえではむしろ支障を与えかねない。就任が5月に移ったことで主要選挙が前後に行われることになった。大統領の支持率が選挙に影響を与えるが、選挙の結果も支持率に反映される。文在寅(ムン・ジェイン)以前の大統領と異なる点だ。

序論が長くなった。今回は2つ目、大統領の支持率に関する話だ。歴代パターンは概して「上高下低」だ。就任初期に高く、勢いが弱まって終盤には低下する。極端な事例が金泳三(キム・ヨンサム)大統領であり、韓国ギャラップの四半期別評価で83%まで上がり、6%で退いた。盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は序盤6カ月間を除いて20-30%台にとどまり、さらに4年目半ば以降は10%台に落ちた。文在寅大統領だけが高く始まって(81%)、比較的高く終わった(42%、政権再創出には失敗)。反騰しても1、2四半期で終わった。


例外が李明博(イ・ミョンバク)大統領だ。初期に20%台を行き来し、2年目の後半から4年目の後半まで36%以上だった。3年目には一時49%まで上がった。前の表現を借りれば「第6共和国の大統領の同じ時期の最高支持率」だった。政権再創出にも成功した。

なぜこれが可能だったのか。結論から言うと、危機に応答し、反転の動力を継続したということだ。当時4・29再選挙・補欠選挙惨敗と盧元大統領の逝去で世論は冷たく、与党内少壮派の刷新要求が激しかった。李明博大統領は6月に「根源的処方」に言及し、8・15演説では「親庶民中道実用」路線を明らかにした。大統領室を改編して民主党走者として挙がっていた鄭雲燦(チョン・ウンチャン)元ソウル大総長を首相として迎えた。競争者(朴槿恵)にも手を差し伸べた。実感できるほどの対策も続いた。無担保小額融資の微笑(ミソ)金融や同伴成長がその例だ。政治的に不利であっても世宗(セジョン)市修正案を出して国会で結論を出した。

李大統領は自ら、当時の朴亨峻(パク・ヒョンジュン)広報企画官の世論動向報告をきっかけに選んだ。「大統領選の支持者の多くが離脱したが、最大の原因は『庶民に対する配慮不足』と調査された」(『大統領の時間』)ということだ。青瓦台(チョンワデ、大統領府)の人たちは当時、このように伝えた。「大統領選挙当時、我々は5.2(0=強い進歩、10=強い保守)だったが、今回は李会昌(イ・フェチャン)自由先進党代表が6、我々が7だったという。我々と共感がない内谷洞(ネゴクドン、国家情報院)側でシナジーがあった。警察の報告書も似ているという話もある。みんな同じだから李大統領も『本心で忠告しているはず』と話した」。

もちろん李大統領もつまずくことがあった。検察総長に自分と同じ高麗大出身者を座らせたのが一例だ。その後、検察の内部が騒がしくなった。「民情首席室は『忠誠心が強い人はむしろ我々を助けることはできない。組織内の信望が厚い人を起用してこそ組織が(我々に)うまくいき、そのような人であってこそ我々を助けることができる』と報告した。李大統領は忠誠心が高い人を起用し、結局、一人も生かせなかった」。内幕を知る人物の数年後の吐露だった。

尹大統領も岐路に立っている。民生・意思疎通を強調するが、基調は何か、何をどのようにしていくのか把握できない。大統領を誤認させた人たちが依然として大統領のそばにいるのを見ると、信賞どころか必罰もない。政策の伝達も管理も問題があるが、大統領室から育てる。政治コンサルタントのパク・ドンウォン氏が話すように「何になる、どんな試験を受けるという目標なく勉強だけを熱心にするのと同じ」だ。大統領、いや参謀でも李大統領の支持率管理から学ばなければいけない。

コ・ジョンエ/中央SUNDAY編集局長代理



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