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関係が良好だったイラン・イスラエル…1979年のイスラム革命以降に悪化(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
イスラエルがイラン領事館を攻撃し、イランがイスラエル本土を空襲するという初めての事態で、中東情勢が急激に不安定化している。かつて経済協力だけでなく軍事的にも一つになった両国はなぜこのように反目することになったのか。両国が歴史的に中東の力学構図をめぐり緻密に「駆け引き」をした結果というのが、専門家らの説明だ。

1979年にイランで「イスラム革命」が起こるまで両国の関係は良い方だった。当初、イランは英国のパレスチナ分割計画(47年)と国連加盟(49年)に反対した。しかし実際にイスラエルが建国される(48年)と、2年後に正式国家と認定した。主要イスラム国家の中ではトルコに続いて2番目の承認だった。

欧州に亡命中だった親米性向のモハンマド・レザー・パフラヴィーが1953年に親衛クーデターで「シャー(王)」になると、両国はさらに急速に近づいた。正式修交はなかったが、代表部を置いてテルアビブとテヘランをつなぐ直航便を運航するほどだった。


当時イスラエルはイランを非アラブ圏国家に分類して友好勢力とするために努力した。特にイスラエルはエジプト・ヨルダン・シリア・レバノン連合軍と行った「第3次中東戦争(6日戦争、1967年)」以降、石油の多くをイランから輸入した。欧州に輸出するイラン産石油のパイプラインと港湾施設を運営する両国企業間の合弁会社も運営した。ついに両国は「フラワー(flower)」という名称の弾道ミサイル共同開発プロジェクト(77-79年)まで稼働した。

◆ミサイル・軍事顧問官を送ったイスラエル

しかしイスラム革命で過激なイスラム原理主義勢力がイラン政権を握ると状況は急変した。フラヴィー王朝を追放した革命指導者ルーホッラー・ホメイニーはイスラエルを「イスラムの敵」「偉大なサタン(米国)に寄生する小さなサタン」と宣言し、すべての公式関係を断絶した。

しかし翌年、イラン・イラク戦争(80-88年)が勃発すると、両国間の軍事蜜月が始まった。当時イラクの核開発を懸念したイスラエルはイランに武器を支援し、軍事顧問官を派遣した。「イランが戦争勃発直後に購入した武器の約80%がイスラエルから来た」という言葉が出るほどだった。戦争期間を合わせてイスラエルがイランに供給したミサイルだけでも1500発にのぼるという集計もある。

イスラエルはその対価としてイランから石油のほか、イラクの軍事施設に関する相当量の情報を得ることができた。81年に行ったイラクの首都バグダット南部のオシラク核施設に対する空襲(オペラ作戦)もこうした軍事情報を参考にしたものだった。

◆隠密で緻密な「代理戦」計画

しかし表と裏は違った。ホメイニ政権は戦争中にもイスラエルに向けて剣を研いでいた。レバノンのシーア派武装組織ヒズボラに武器を提供し、軍事訓練もして長期間にわたり「代理戦(proxy war」を準備していたのだ。

実際、90年代からヒズボラのテロがイスラエルを恐怖に追い込み始めた。29人が死亡したアルゼンチンのイスラエル大使館爆弾テロ(92年)をはじめ、85人の死者を出したアルゼンチン-イスラエル親善協会建物(AMIA)爆弾テロ(94年)などが相次いで発生した。イスラエルはヒズボラの背後にイランを挙げたが、イランはテロ関連説を最後まで否認した。

これに対抗してイスラエルもイラン政府を転覆することを目標にした反軍勢力のイラン人民ムジャヒディン(MEK)、イラン人民抵抗運動(PRMI)を軍事的に密かに支援した。


関係が良好だったイラン・イスラエル…1979年のイスラム革命以降に悪化(2)

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