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台湾総統当選者「天安門事態は愛国運動」 中国「トラブルメーカー」

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

台湾の国旗

今回の台湾総統選挙で勝利を収めた民主進歩党(民進党)の頼清徳氏は1959年台北県(現新北市)の海岸の小さな村、万里というところで鉱夫の息子として生まれた。だが生後95日後に父親が鉱山事故で亡くなった。経済的に厳しい家庭状況にも秀才と言われながら国立台湾大学物理治療学科を卒業し、台湾成功大学医学部、ハーバード大学公衆衛生学科(修士)などで勉強した。

台南市で内科医として働いていた頼氏が政治と縁を結んだのは1994年。民進党所属で台湾省省長選挙に出馬した陳定南・前法務部長(長官)をサポートしたのがきっかけだ。

頼氏は台南氏を地方区として1998年に立法委員(国会議員)に当選した後、連続4選に成功した。2010年台南市長選挙で当選し、再任に成功して2017年まで市長を務めた。


中央政治舞台にデビューしたのは2017年だった。当時経済指標の不振と停電事態に対する責任を負って辞退した林全氏の後任として行政院長(首相)に就いた。

2019年、総統選候補として注目され始めた。総統選挙を翌年に控え、頼氏は蔡英文総統に反旗を翻して党内の予備選を提案した。台湾の歴史上、初めてのことだった。「私なら台湾独立の下地作りの責任を負うことができる」と主張しながらだ。予備選で蔡総統に惜敗したが、次期総統候補のイメージ構築に成功した。その後、蔡総統が頼氏をランニングメイトとして呼んで副総統になり、昨年は党首席にも就いて総統選候補の足場を固めた。頼氏は今回の選挙に出馬した候補のうち、中国が最も苦手としている人物だ。昨年頼氏が総統選候補に確定すると、中国当局は頼氏「裏切り者」「トラブルメーカー」と呼んで露骨に非難してきた。

契機となったのが2014年だ。台南市長だった頼氏は生まれて初めて中国を訪問した。上海復旦大学を訪れた頼氏は「台湾独立は台湾人の自決権のためのものであり、台湾内で完ぺきな共感を形成している」と述べた。「1989年胡耀邦総書記の逝去以降に起きた学生運動は愛国運動」としながら中国当局がダブー視する1989年6月4日の天安門事態にも言及した。

実際に頼氏は台湾内で華独(中華民国独立)派に分類される蔡総統よりも台湾独立志向が強いと言われている。台湾アイデンティティを強調する政策を推進して2011年台南市長時代に中国式漢語ピンイン表記を拒否して台湾式通用ピンインやウェード・ジャイルズ式表記法を使うように条例を制定した。中華民国の国号も台湾共和国に変えなければならないという台独(台湾独立)派という評価を受けている理由だ。だが、最近では「台湾はすでに主権国なので総統に当選しても独立を宣言しない」と明らかにしている。中華民国という国号も維持するという立場だ。

頼氏は妻の呉玫如夫人との間に2人の息子がいる。呉夫人は裏方として頼氏を支えてきた。台湾電力公社で働いていたが、頼氏が政界に本格的に進出した後は内助に専念した。今回の選挙過程でも自身を前面に出すよりも主に夫を引き立てる役割に注力した。



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