今月10日は世界人権宣言75周年記念日だった。その日「人権白書」を発表しながら北朝鮮は人権を尊重はするが「人権宣言が強調した人間の尊厳と権利は今日の銃器類犯罪や人種差別、警察の暴行、女性および児童虐待など社会悪が蔓延した米国と西欧で無惨に蹂躙(じゅうりん)されている」と主張した。北朝鮮の今回の白書は人権に対する北朝鮮の立場がどれくらいねじれているかを示している。
2014年2月に出された国連北朝鮮人権調査委員会の報告書などを見ると北朝鮮の人権蹂躪は全方向で持続している。多くの国家は人権尊重を志向しているが、北朝鮮政権存立の土台になる政治的信念は人権という概念とは完全に対称点にある。北朝鮮で個人の価値、そして個人と国家の関係は最高指導者と彼を取り囲む党から出発する。このような政治体制で絶対的かつ普遍的な人権、党や最高指導者に好き勝手させない個人の権利というものは存在することができない。
このような状況は絶対的忠誠が不可欠だった抗日組織パルチザンを導いた金日成(キム・イルソン)の個人経験と日帝治下に韓国人に強要された日本天皇に対する忠誠がひとつに混じり合った結果だ。
したがって国際的な人権コミットメントは北朝鮮と北朝鮮の伝統、そして政治的信念に害になるものとして徹底して拒否することが論理的のようだ。しかし北朝鮮の立場はというと必ずしもそうではない。1981年9月、北朝鮮は「市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR)」と「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(ICESCR)」に加入する奇異な行動を見せた。
信念の自由、結社の自由、拷問からの自由、移動の自由、公正な裁判を受ける権利など北朝鮮の慣行とはあまりにもかけ離れた権利を保障すると約束したのだ。ICCPRとICESCRはどちらも独立的な国連機構によって順守可否をモニタリングしている2つの規約に加入した北朝鮮がまるで自国の人権蹂躪に対する批判を甘受したようにみえる。北朝鮮がなぜこれら条約に加入したのかわれわれは永遠に理解できないかもしれない。
1991年9月17日、南北が国連に同時加入することによって北朝鮮も世界人権宣言(順守)に暗黙的に同意した。これに伴い、国連人権理事会の調査を受けることになり、国連北朝鮮人権調査委員会の北朝鮮人権報告書発刊が可能になった。国際社会との約束と北朝鮮内部の慣行の折衷点を探るための北朝鮮の努力は今回の人権白書でも現れている。本当の人権順守は完全な主権がなければ不可能で、北朝鮮は主権を守護しているので当然人権も保護しているというのが北朝鮮の主張だ。だが、国際社会は北朝鮮の主張をあざ笑う。
国際舞台に向かった人権に関する公式的な約束と実質的な慣行の間の大きな隔たりは3種類の重大な結果を招く。第一に、北朝鮮はICCPRとICESCR、そして世界人権宣言に関する国連体制と持続的な摩擦を引き起こして批判を受けている。その時に国連代表部北朝鮮外交官は興奮して北朝鮮官営メディアは国連の関連報告書を猛非難する。北朝鮮政権はこのような国際的批判を嫌い、このような緊張関係は世界が北朝鮮に敵対的で、国連は米国の操縦のもとにあるという錯覚に陥らせる。
第二に、国連機構と条約が北朝鮮政権の人権侵害責任を問うことができる一連の基準として作動するというのは肯定的結果だ。
さしあたっては北朝鮮政権の徹底した情報統制によって北朝鮮住民は関連した文書に接近するのは難しいが、長期的に見ると政権自体が規則を違反している事実が分かればこれは北朝鮮政権に実質的脅威となる。
例えば1976年「モスクワ・ヘルシンキ・グループ(MHG)」が明らかにした旧ソ連の国際法違反は結局ソ連体制崩壊につながったし、1989年東ドイツが自ら規則を破ったという事実が明らかになると翌年末のベルリンの壁崩壊につながった。
第三に、国際条約と機構は長期的に北朝鮮の人権成績表に対して真剣な議論を交わすことができる基準になりうる。もちろん国際社会との交流が一度もない北朝鮮が近くこのような議論に出る可能性はゼロに近い。しかし変化が起きるかもしれない。今ははるかに遠く見えてもわれわれは北朝鮮住民のためにもいつかは北朝鮮人権関連国連条約の履行のための議論を再開するという希望の緒を放してはならない。
ジョン・エバラード/元平壌(ピョンヤン)駐在英国大使
◇外部者執筆のコラムは中央日報の編集方針と異なる場合があります。
2014年2月に出された国連北朝鮮人権調査委員会の報告書などを見ると北朝鮮の人権蹂躪は全方向で持続している。多くの国家は人権尊重を志向しているが、北朝鮮政権存立の土台になる政治的信念は人権という概念とは完全に対称点にある。北朝鮮で個人の価値、そして個人と国家の関係は最高指導者と彼を取り囲む党から出発する。このような政治体制で絶対的かつ普遍的な人権、党や最高指導者に好き勝手させない個人の権利というものは存在することができない。
このような状況は絶対的忠誠が不可欠だった抗日組織パルチザンを導いた金日成(キム・イルソン)の個人経験と日帝治下に韓国人に強要された日本天皇に対する忠誠がひとつに混じり合った結果だ。
したがって国際的な人権コミットメントは北朝鮮と北朝鮮の伝統、そして政治的信念に害になるものとして徹底して拒否することが論理的のようだ。しかし北朝鮮の立場はというと必ずしもそうではない。1981年9月、北朝鮮は「市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR)」と「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(ICESCR)」に加入する奇異な行動を見せた。
信念の自由、結社の自由、拷問からの自由、移動の自由、公正な裁判を受ける権利など北朝鮮の慣行とはあまりにもかけ離れた権利を保障すると約束したのだ。ICCPRとICESCRはどちらも独立的な国連機構によって順守可否をモニタリングしている2つの規約に加入した北朝鮮がまるで自国の人権蹂躪に対する批判を甘受したようにみえる。北朝鮮がなぜこれら条約に加入したのかわれわれは永遠に理解できないかもしれない。
1991年9月17日、南北が国連に同時加入することによって北朝鮮も世界人権宣言(順守)に暗黙的に同意した。これに伴い、国連人権理事会の調査を受けることになり、国連北朝鮮人権調査委員会の北朝鮮人権報告書発刊が可能になった。国際社会との約束と北朝鮮内部の慣行の折衷点を探るための北朝鮮の努力は今回の人権白書でも現れている。本当の人権順守は完全な主権がなければ不可能で、北朝鮮は主権を守護しているので当然人権も保護しているというのが北朝鮮の主張だ。だが、国際社会は北朝鮮の主張をあざ笑う。
国際舞台に向かった人権に関する公式的な約束と実質的な慣行の間の大きな隔たりは3種類の重大な結果を招く。第一に、北朝鮮はICCPRとICESCR、そして世界人権宣言に関する国連体制と持続的な摩擦を引き起こして批判を受けている。その時に国連代表部北朝鮮外交官は興奮して北朝鮮官営メディアは国連の関連報告書を猛非難する。北朝鮮政権はこのような国際的批判を嫌い、このような緊張関係は世界が北朝鮮に敵対的で、国連は米国の操縦のもとにあるという錯覚に陥らせる。
第二に、国連機構と条約が北朝鮮政権の人権侵害責任を問うことができる一連の基準として作動するというのは肯定的結果だ。
さしあたっては北朝鮮政権の徹底した情報統制によって北朝鮮住民は関連した文書に接近するのは難しいが、長期的に見ると政権自体が規則を違反している事実が分かればこれは北朝鮮政権に実質的脅威となる。
例えば1976年「モスクワ・ヘルシンキ・グループ(MHG)」が明らかにした旧ソ連の国際法違反は結局ソ連体制崩壊につながったし、1989年東ドイツが自ら規則を破ったという事実が明らかになると翌年末のベルリンの壁崩壊につながった。
第三に、国際条約と機構は長期的に北朝鮮の人権成績表に対して真剣な議論を交わすことができる基準になりうる。もちろん国際社会との交流が一度もない北朝鮮が近くこのような議論に出る可能性はゼロに近い。しかし変化が起きるかもしれない。今ははるかに遠く見えてもわれわれは北朝鮮住民のためにもいつかは北朝鮮人権関連国連条約の履行のための議論を再開するという希望の緒を放してはならない。
ジョン・エバラード/元平壌(ピョンヤン)駐在英国大使
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