「人が犬にかみついた」
2004年5月、「ニューEFソナタ」が米国の品質調査機関JDパワーの品質調査で1位を記録すると、米オートモーティブニュースはこのように報道した。まだ「日本車の亜流」程度に扱われてきたヒョンデの浮上に外信が異例だと評価したのだ。JDパワーは米国の消費者を対象に品質調査を実施してブランドの順位を付ける。ソナタが米国の消費者を対象にした評価で「しっかりとした模範生」と呼ばれるトヨタ「カムリ」を押し出したことに対し市場では電子・家電分野でサムスン電子がソニーを追い越したのに比肩しながら沸きかえった。
◇ソナタの品質1位に「人が犬にかみついた」
このように品質で公認されたが、本社の空気は急に冷え込んだ。現代自動車グループの鄭夢九(チョン・モング)会長(現名誉会長)が同年6月の月例会議で「危機経営」を宣言してだ。当時ヒョンデは上半期に売り上げ13兆3906億ウォン、営業利益1兆1738億ウォンを記録するなど善戦する様相だった。
こうした中、鄭名誉会長の特命が下ったのだ。彼のメッセージはシンプルだった。いや、督促に近かった。「うまくいっている時に危機に備えなければならない。トヨタに追いつこう。まずトヨタから学べ」。
当時トヨタの疾走はシンドロームのようだった。50年以上続いた黒字と無スト行進、自ら改善することがなければ不安になる「カイゼン」文化、持続的なコスト節減が象徴だった。トヨタは米国の看板産業だった自動車ビッグスリーのGM、フォード、ダイムラー・クライスラー(現ステランティス)まで抜いた。
◇李在鎔会長「トヨタ研修」に行くことも
トヨタに学ぼうというブームは文字通り世界的な話題だった。書店にはトヨタの経営方法を分析した数十冊、数百冊の本が陳列されていた。サムスン電子の李在鎔(イ・ジェヨン)経営戦略グループ常務(現会長)はトヨタ式生産方式(TPS)を学ぶために研修に行ったりもした。
鄭夢九名誉会長の指示は迅速かつ具体的に実行された。ヒョンデの役員はトヨタを分析するセミナーやフォーラムなどを毎週開いてトヨタの生産・労使・研究開発など全分野を対象に猛烈な勉強に突入した。企画総括本部傘下に直接『トヨタの新成長戦略』を出したり、「トヨタウェイ」を分析した資料が研究所と役員を対象に共有された。現代モービスでも課長級以上の管理者クラス50人を研修のためトヨタに送った。
それから20年後の2023年、現代自動車グループは過去初めてトヨタを追い抜いた。ヒョンデの今年1-3月期の営業利益は6兆4667億ウォンでトヨタの6兆2087億ウォンをわずかに上回った。半世紀前に自動車産業不毛の地だった韓国で後発走者として設立されたヒョンデが86年のキャリアを持つ世界1位の自動車メーカーを収益性で上回ったのだ。ただ未来自動車競争力と持続可能性、人材運用などで真の逆転が可能かは未知数だ。
◇トヨタ超える種は鄭夢九の「品質底力」
極限の改善を叫ぶトヨタの精神はヒョンデの「圧縮成長」のDNAとも似ている。それが「品質底力」だ。中央日報が会った現代自動車グループ現職役員と元役員は鄭夢九名誉会長の経営方式を要約するキーワードとしてこの4文字を提示する。「ひたすら品質」という話だ。
事実ここには鄭夢九名誉会長の経験がそのままにじんでいる。現代グループ創業者鄭周永(チョン・ジュヨン、故人)名誉会長の長男である彼はヒョンデ初のサービスセンターだったソウル・元暁路(ウォニョロ)工場でソウル事務所長(部品課長)として勤務を始めた。これが1970年2月のことだ。だれもが知っている「財閥2世」だが、手袋をはめてミッションを開けて中を見るほど手が油で汚れるのをいとわなかった。
1970年代初めだけでもヒョンデは「なにかにつけて故障」だった。1967年に設立された現代自動車が初めて出した米フォードの「コルティナ」が代表的だ。品質も問題だったが、なめらかなアスファルトではなく土ぼこりが飛ぶでこぼこした未舗装道路を走らなければならなかったコルティナは故障があまりにも多く、「止まったと思ったらコルティナ」「コルティナは押していかなければならない車」という汚名をかぶっていた。
ヒョンデは海外でも笑いものだった。コメディ番組の素材になるのが常だった。1998年に米国のトークショー進行者デビッド・レターマンは「宇宙船の計器パネルにヒョンデのロゴを付けたら操縦士が驚いて帰還をあきらめるだろう」と皮肉った。実際に翌年末に市販された「トラジェXG」は6カ月余りの期間に5回もリコールされた。「ベルナ」「ソナタ」など中型車と小型車を分かたずリコールが続いた。
◇「ヒョンデの真の革新の始まりは品質会議」
こうしたヒョンデの真の革新は「品質会議」から始まった。1999年に鄭会長が就任して新たに作られた場だ。月平均2回ほど開かれるが、すべての役員と実務陣が緊張する瞬間だった。会議開始時刻である午前7時30分には各部品の設計担当者と研究所の重役らが起亜自動車汝矣島(ヨイド)社屋またはヒョンデ良才洞(ヤンジェドン)本社社屋、南陽(ナミャン)研究所などで緊張しながら待機していた。さらに部品メーカー代表まで呼び出された。当時品質会議に参加したある役員が伝える話だ。
「パワートレイン(エンジン)を担当する人はトランスミッションをわからないのです。トランスミッション担当者はシャーシに対する理解度が落ちます。これまでお互いの分野に対して全く知らない人たちが専門家ぶって集まり車を作っていたのです。エンジン車に使われる部品の数は2万5000個以上に達しますが、それぞれ『専門性』という美名の下に他分野に対する理解は非常に劣っていた状況です」。
品質会議には部品や自動車の実物が必ず登場した。鄭名誉会長はそれぞれの部品を取り上げながら「なぜこのようになったのか」と質問した。わかりにくい専門用語と美辞麗句で包装された改善計画、バラ色の見通しを大雑把にまとめて羅列したり、「自分たちの誤りではない」と責任を押し付け合う時には間違いなく「簡単に説明しろ」という激しい叱責が落ちた。
◇「自分たちの責任ではない」回避すれば激しい叱責
李炯根(イ・ヒョングン)元起亜自動車副会長は、「本人(鄭夢九名誉会長)が完ぺきに理解し、本質を突いた質問をするのでだれも身じろぎできなかった」と回顧した。また別の役員は「いっそ率直に話せば良い。作り出して言い逃れることを非常に嫌いました」と伝えた。権文植(クォン・ムンシク)元ヒョンデ副会長は「(品質会議を通じて)むしろ部門間のコミュニケーションが円滑になり、責任意識ができて解決者の役割をしっかりとした。現在のヒョンデの輝かしい成功は決して偶然ではない」と評価した。
その後ヒョンデは品質に対する自信を土台として米国市場で保証修理(ワランティ)期間を「10年10万マイル」に増やす。高品質、高級車のイメージを作るための次元でだ。フォードとGMはそれぞれ3年3万6000マイル、トヨタは5年6万マイルを保障していた時期だ。当時ヒョンデ米国法人社長は現地メディアとのインタビューで「ヒョンデの品質が良くなり大きな負担にならなかった。かかった費用は当初予想より30%少なかった」と話した。
◇無謀かvs勝負か「それでも投資」
ともすれば無謀に転落するような破格さが決め手になったのは絶え間ない技術革新が本質になった。代表的な技術革新が南陽研究所のパイロットセンターだ。「デザイン→開発・設計→試作車製作→評価→量産」という発売過程の生産性を革新的に改善した。生産過程の不良は工場の責任になるが、設計と点検段階である研究所内に生産ラインを設けて「品質不良」の端緒をとらえたのだ。こうした投資はわずか1年で天文学的利益として戻ってきた。
権文植元ヒョンデ副会長は鄭夢九名誉会長とともに2002年にメルセデス・ベンツの工場を訪問したエピソードを紹介した。「量産前に新車と同じ車を30台作り、組み立てや部品の品質を完ぺきにチェックする過程がありました。鄭名誉会長がそれを見ていて『品質はただできるものではないのだな。それならわれわれは300台作りなさい』と指示しました。その年にかかった費用だけで8500億ウォンでした。ところが1年後に確かめてみると効果は1兆5000億ウォンになりました。生産性が飛躍的に改善されたのです」。
この時、ベンツ出張に同行した別の副社長は、「鄭夢九会長が『設計したやつらが直接組み立ててみろ。図面だけ描いて終わらせるな』と指示した」と振り返った。鄭名誉会長はパイロットセンターをしばしばPDI(プレデリバリーインスペクション、販売前に瑕疵がないか最終点検する所)と呼んだ。「最後のチェック場所」という悲壮な考えで役割を遂行しなければならないという意味からだ。
権元副会長は「このレベルの規模のパイロットセンターは世界的に唯一無二だろう。オーナーの決断がなかったなら不可能な破格な投資」と評価した。
◇「ベンツが30台点検するならわれわれは300台」
それでも鄭名誉会長のトレードマークである「底力」にだれもが同意したのではない。韓国電力本社敷地だった「江南グローバルビジネスセンター」が建てられるソウル・三成洞(サムソンドン)の土地7万9342平方メートルを10兆5500億ウォンで落札したのが代表的だ。当時でも過度な金額という評価が出ていた。市場ではまた別の競合候補だったサムスンは5兆ウォン前後で入札したと推定する。
<ヒョンデ研究>「設計したやつらが組み立ててみろ」トヨタに勝つ鄭夢九の勝負(2)
2004年5月、「ニューEFソナタ」が米国の品質調査機関JDパワーの品質調査で1位を記録すると、米オートモーティブニュースはこのように報道した。まだ「日本車の亜流」程度に扱われてきたヒョンデの浮上に外信が異例だと評価したのだ。JDパワーは米国の消費者を対象に品質調査を実施してブランドの順位を付ける。ソナタが米国の消費者を対象にした評価で「しっかりとした模範生」と呼ばれるトヨタ「カムリ」を押し出したことに対し市場では電子・家電分野でサムスン電子がソニーを追い越したのに比肩しながら沸きかえった。
◇ソナタの品質1位に「人が犬にかみついた」
このように品質で公認されたが、本社の空気は急に冷え込んだ。現代自動車グループの鄭夢九(チョン・モング)会長(現名誉会長)が同年6月の月例会議で「危機経営」を宣言してだ。当時ヒョンデは上半期に売り上げ13兆3906億ウォン、営業利益1兆1738億ウォンを記録するなど善戦する様相だった。
こうした中、鄭名誉会長の特命が下ったのだ。彼のメッセージはシンプルだった。いや、督促に近かった。「うまくいっている時に危機に備えなければならない。トヨタに追いつこう。まずトヨタから学べ」。
当時トヨタの疾走はシンドロームのようだった。50年以上続いた黒字と無スト行進、自ら改善することがなければ不安になる「カイゼン」文化、持続的なコスト節減が象徴だった。トヨタは米国の看板産業だった自動車ビッグスリーのGM、フォード、ダイムラー・クライスラー(現ステランティス)まで抜いた。
◇李在鎔会長「トヨタ研修」に行くことも
トヨタに学ぼうというブームは文字通り世界的な話題だった。書店にはトヨタの経営方法を分析した数十冊、数百冊の本が陳列されていた。サムスン電子の李在鎔(イ・ジェヨン)経営戦略グループ常務(現会長)はトヨタ式生産方式(TPS)を学ぶために研修に行ったりもした。
鄭夢九名誉会長の指示は迅速かつ具体的に実行された。ヒョンデの役員はトヨタを分析するセミナーやフォーラムなどを毎週開いてトヨタの生産・労使・研究開発など全分野を対象に猛烈な勉強に突入した。企画総括本部傘下に直接『トヨタの新成長戦略』を出したり、「トヨタウェイ」を分析した資料が研究所と役員を対象に共有された。現代モービスでも課長級以上の管理者クラス50人を研修のためトヨタに送った。
それから20年後の2023年、現代自動車グループは過去初めてトヨタを追い抜いた。ヒョンデの今年1-3月期の営業利益は6兆4667億ウォンでトヨタの6兆2087億ウォンをわずかに上回った。半世紀前に自動車産業不毛の地だった韓国で後発走者として設立されたヒョンデが86年のキャリアを持つ世界1位の自動車メーカーを収益性で上回ったのだ。ただ未来自動車競争力と持続可能性、人材運用などで真の逆転が可能かは未知数だ。
◇トヨタ超える種は鄭夢九の「品質底力」
極限の改善を叫ぶトヨタの精神はヒョンデの「圧縮成長」のDNAとも似ている。それが「品質底力」だ。中央日報が会った現代自動車グループ現職役員と元役員は鄭夢九名誉会長の経営方式を要約するキーワードとしてこの4文字を提示する。「ひたすら品質」という話だ。
事実ここには鄭夢九名誉会長の経験がそのままにじんでいる。現代グループ創業者鄭周永(チョン・ジュヨン、故人)名誉会長の長男である彼はヒョンデ初のサービスセンターだったソウル・元暁路(ウォニョロ)工場でソウル事務所長(部品課長)として勤務を始めた。これが1970年2月のことだ。だれもが知っている「財閥2世」だが、手袋をはめてミッションを開けて中を見るほど手が油で汚れるのをいとわなかった。
1970年代初めだけでもヒョンデは「なにかにつけて故障」だった。1967年に設立された現代自動車が初めて出した米フォードの「コルティナ」が代表的だ。品質も問題だったが、なめらかなアスファルトではなく土ぼこりが飛ぶでこぼこした未舗装道路を走らなければならなかったコルティナは故障があまりにも多く、「止まったと思ったらコルティナ」「コルティナは押していかなければならない車」という汚名をかぶっていた。
ヒョンデは海外でも笑いものだった。コメディ番組の素材になるのが常だった。1998年に米国のトークショー進行者デビッド・レターマンは「宇宙船の計器パネルにヒョンデのロゴを付けたら操縦士が驚いて帰還をあきらめるだろう」と皮肉った。実際に翌年末に市販された「トラジェXG」は6カ月余りの期間に5回もリコールされた。「ベルナ」「ソナタ」など中型車と小型車を分かたずリコールが続いた。
◇「ヒョンデの真の革新の始まりは品質会議」
こうしたヒョンデの真の革新は「品質会議」から始まった。1999年に鄭会長が就任して新たに作られた場だ。月平均2回ほど開かれるが、すべての役員と実務陣が緊張する瞬間だった。会議開始時刻である午前7時30分には各部品の設計担当者と研究所の重役らが起亜自動車汝矣島(ヨイド)社屋またはヒョンデ良才洞(ヤンジェドン)本社社屋、南陽(ナミャン)研究所などで緊張しながら待機していた。さらに部品メーカー代表まで呼び出された。当時品質会議に参加したある役員が伝える話だ。
「パワートレイン(エンジン)を担当する人はトランスミッションをわからないのです。トランスミッション担当者はシャーシに対する理解度が落ちます。これまでお互いの分野に対して全く知らない人たちが専門家ぶって集まり車を作っていたのです。エンジン車に使われる部品の数は2万5000個以上に達しますが、それぞれ『専門性』という美名の下に他分野に対する理解は非常に劣っていた状況です」。
品質会議には部品や自動車の実物が必ず登場した。鄭名誉会長はそれぞれの部品を取り上げながら「なぜこのようになったのか」と質問した。わかりにくい専門用語と美辞麗句で包装された改善計画、バラ色の見通しを大雑把にまとめて羅列したり、「自分たちの誤りではない」と責任を押し付け合う時には間違いなく「簡単に説明しろ」という激しい叱責が落ちた。
◇「自分たちの責任ではない」回避すれば激しい叱責
李炯根(イ・ヒョングン)元起亜自動車副会長は、「本人(鄭夢九名誉会長)が完ぺきに理解し、本質を突いた質問をするのでだれも身じろぎできなかった」と回顧した。また別の役員は「いっそ率直に話せば良い。作り出して言い逃れることを非常に嫌いました」と伝えた。権文植(クォン・ムンシク)元ヒョンデ副会長は「(品質会議を通じて)むしろ部門間のコミュニケーションが円滑になり、責任意識ができて解決者の役割をしっかりとした。現在のヒョンデの輝かしい成功は決して偶然ではない」と評価した。
その後ヒョンデは品質に対する自信を土台として米国市場で保証修理(ワランティ)期間を「10年10万マイル」に増やす。高品質、高級車のイメージを作るための次元でだ。フォードとGMはそれぞれ3年3万6000マイル、トヨタは5年6万マイルを保障していた時期だ。当時ヒョンデ米国法人社長は現地メディアとのインタビューで「ヒョンデの品質が良くなり大きな負担にならなかった。かかった費用は当初予想より30%少なかった」と話した。
◇無謀かvs勝負か「それでも投資」
ともすれば無謀に転落するような破格さが決め手になったのは絶え間ない技術革新が本質になった。代表的な技術革新が南陽研究所のパイロットセンターだ。「デザイン→開発・設計→試作車製作→評価→量産」という発売過程の生産性を革新的に改善した。生産過程の不良は工場の責任になるが、設計と点検段階である研究所内に生産ラインを設けて「品質不良」の端緒をとらえたのだ。こうした投資はわずか1年で天文学的利益として戻ってきた。
権文植元ヒョンデ副会長は鄭夢九名誉会長とともに2002年にメルセデス・ベンツの工場を訪問したエピソードを紹介した。「量産前に新車と同じ車を30台作り、組み立てや部品の品質を完ぺきにチェックする過程がありました。鄭名誉会長がそれを見ていて『品質はただできるものではないのだな。それならわれわれは300台作りなさい』と指示しました。その年にかかった費用だけで8500億ウォンでした。ところが1年後に確かめてみると効果は1兆5000億ウォンになりました。生産性が飛躍的に改善されたのです」。
この時、ベンツ出張に同行した別の副社長は、「鄭夢九会長が『設計したやつらが直接組み立ててみろ。図面だけ描いて終わらせるな』と指示した」と振り返った。鄭名誉会長はパイロットセンターをしばしばPDI(プレデリバリーインスペクション、販売前に瑕疵がないか最終点検する所)と呼んだ。「最後のチェック場所」という悲壮な考えで役割を遂行しなければならないという意味からだ。
権元副会長は「このレベルの規模のパイロットセンターは世界的に唯一無二だろう。オーナーの決断がなかったなら不可能な破格な投資」と評価した。
◇「ベンツが30台点検するならわれわれは300台」
それでも鄭名誉会長のトレードマークである「底力」にだれもが同意したのではない。韓国電力本社敷地だった「江南グローバルビジネスセンター」が建てられるソウル・三成洞(サムソンドン)の土地7万9342平方メートルを10兆5500億ウォンで落札したのが代表的だ。当時でも過度な金額という評価が出ていた。市場ではまた別の競合候補だったサムスンは5兆ウォン前後で入札したと推定する。
<ヒョンデ研究>「設計したやつらが組み立ててみろ」トヨタに勝つ鄭夢九の勝負(2)
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