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【時視各角】「台湾の人々が傷ついた」=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

韓中修交で台湾との外交関係が断絶した1992年8月24日午後4時、ソウル明洞(ミョンドン)にある台湾大使館で最後に挙行された国旗降納式に殺到した華僑が台湾の国旗である青天白日旗が下される様子を見守りながら涙を流している。[中央フォト]

「韓国と台湾の未来関係について話してほしい」

韓国メディアにもたびたび寄稿をしている国立政治大学の王信賢教授に誰かがした質問だ。今月初め、台湾台北で開かれた「米中戦略競争と両岸関係」という寛勲(クァンフン)クラブのセミナーだった。王氏は未来ではなく、過去に向かった。「1992年韓国と台湾が断交した時、ちょうど大学を卒業した状況だった。事実、韓国が明洞(ミョンドン)にある大使館を中国に譲り渡した時、多くの台湾の人々が傷ついた。多くの人々が韓国を観光する時、明洞で中国大使館を見ながら『これはもともと私たちのものだったのに』と思ったという」直前の王氏は穏やかだった。ところが突然「傷」とは。しかしそう言うだけのことはあった。

過去、韓国は台湾は血盟以上の関係だった。初めは抗日、その後は反共を共にした。断交の時の台湾政府の抗議文の一部だが、すべて事実だ。「1919年上海臨時政府樹立後、対日本抗争でも中華民国もまた厳しい状況にもかかわらず、韓国臨時政府を積極的に支援してきた。日本との戦争後、韓国民の安全確保と帰国を助け、生活費まで支援したことがある。1943年カイロ宣言で蒋介石総統が韓国の自由独立を主張して朝鮮独立条項が挿入され、両国修交後、50年代初めは韓国が糧食不足で難しい状況に直面した時、金信(キム・シン)大使の要請で蒋総統が食糧を支援したこともある」


金九(キム・グ)先生の息子である金大使を蒋総統は家族と感じていた。蒋総統の最側近であり初代韓国大使の邵毓麟は大使官邸が金九先生が住んでいた所だと知ると、暗殺場所だった書斎を寝室に変えて、せめて夢の中ででも金九先生と会いたいと焦がれていた人だった。韓国戦が勃発するやいなや派兵意思を明らかにしたのは台湾だった。米国の持続的な反対で実現はしなかったが。

中国の台頭以降はもちろん変わった。日本(1972年)、米国(1979年)が中国と修交して台湾とは断交した。韓国は盧泰愚(ノ・テウ)政府時の92年8月だった。我々がアジア圏で最後まで修交国だったから義理があったとはいうが、台湾は首を縦に振らないだろう。我々が終盤までしらを切っていたからだ。盧大統領は5月にも「新友を得るために旧友を捨てるようなことはしない」と言った。断交を数日後に控えて台湾大使に「韓中間の実質的進展(substantial progress)がある」と言質を与えた。内心、台湾が明洞大使館を売ってしまうのではないか、盧大統領の任期内の韓中修交と9月末訪中に影響を及ぼすのではないだろうかという心労焦燥だけだった。日本や米国が高官を送って事前説明をしたこととは違っていた。しかも中国も7月中旬、金日成(キム・イルソン)に説明した。

外交官(ノ・チャンヒ)の述懐だ。「そのとき私たちがどんな話をしてどんな行動をしても台湾の不満と非難を避けることはできないことだった。しかし、振り返ってみると台湾にとってそこまで深い裏切りを感じさせ、その後長い歳月が流れても円満な関係を回復できなくなったことに対しては私たちの立場でも反省の余地がなくはない。問題は私たちがもう少し早くに台湾側に事前通報して、もう少し真剣に将来の問題に対して協議する姿勢を示すことができなかったところにあった」。実際、両国間の航空路線が復元されるまでに12年という時間を要した。

当時台湾大使館1等書記官だった曺喜庸氏は昨年出版した(『中華民国リポート1990-1993』)でこのような外交の慢性的問題によって、政権ごとの短期的成果志向に外交当局が振り回されながら大国数カ国と北朝鮮中心の外交をしたところ、その他の主要国家や中・小国に対する時期適切な配慮と投資を疎かにしているという趣旨の批判をした。

外交的激変期だ。当時、北方外交という大きな方向は正しかった。台湾の扱いは不十分だった。今度は韓日米協力強化が正しい方向だ。だが、朝中露を扱う細技(注意深く扱う技術)が適切かどうかは疑問だ。心より良くなったことを願う。

参考に、王教授は肯定的な話のほうをより多くしてくれた。韓国と台湾が同じような境遇なので、協力することが多いと話しながらだ。

コ・ジョンエ/chiefエディター



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