「依然として多くのロシア人がクリミア半島の休養地を訪ねて行く。危険を甘受してでも」 (ロイター通信)
ウクライナ戦争が勃発して19カ月、戦争と休暇という似合わない2つの単語が出会う所がある。美しいビーチときらびやかな日差しで有名なクリミア半島の話だ。
「黒海の宝石」と呼ばれるクリミア半島は2021年にロシア本土からだけで950万人が訪れたロシア人の代表的な夏の休養地だ。ロイター通信など外信は昨年の戦争勃発後に数は多少減ったが、夏休みのためクリミア半島を訪れるロシア人が続いていると報道した。
◇52時間の列車旅行も甘受
ロイターによると、戦争前にはロシアのシベリアからクリミア半島まで飛行機で約4時間で到着できた。だが最近は少なくとも1日半かかる。
シベリアからモスクワまで飛行機で行った後、列車に乗り換えなければならないためだ。モスクワから約1300キロメートル北に離れた所から列車だけで52時間かけクリミア半島に休暇に行く観光客もいるとロイターは伝えた。
戦争のため旅客機がクリミア半島の上空を運航できないためだ。ウクライナがロシアとクリミア半島をつなぐクリミア大橋を2度攻撃した後、ロシア当局はクリミア半島の航空路を全面閉鎖した。
クリミア半島での休暇のもっと大きな障害は安全上のリスクだ。最近クリミア半島は軍基地や空港などの主要施設と装備を打撃しようとするウクライナのドローンとこれを撃墜しようとするロシア軍の防空網の間で激戦場になった。そのため「黒海の宝石」のクリミア半島が「戦争の新たな火薬庫」になったという話も出てきた。
実際に民間人が被害を受ける事件も起きた。ロシア国家対テロ委員会(NAC)によると、7月にウクライナの無人艇にクリミア大橋が爆破された時にロシア人家族の車が被害を受けた。乗っていた夫婦は死亡し同乗した14歳の娘が重傷を負った。
こうした状況だが一部のロシア人はロシアの防空システムを信じると言いながら安全上のリスクを無視しているとロイターは伝えた。クリミア半島のある旅行ガイドはウォール・ストリート・ジャーナルに「多くのロシア人がウクライナ発の『フェイクニュース』に怖じ気づいたが、クリミア半島のビーチは依然として多くの人でにぎわっている」と明らかにした。
◇「ロシアの標的」オデーサで海水浴
ロシアと戦争をするウクライナも休養地を用意している。黒海沿岸にあるウクライナのオデーサ市当局は先月海水浴場6カ所をオープンするなどビーチを開放した。ロシア軍の侵攻が始まって18カ月ぶりだ。オデーサはウクライナ最大の港であり、伝統的な避暑地だ。同時に7月にロシア軍の爆撃で20人以上の死傷者が出るほどロシア軍の主要攻撃目標でもある。
CNNによると、当局は空襲警報が発令されれば海水浴を禁止するという条件を付けた。ビーチ開放に合わせオデーサ軍事行政責任者はテレグラムを通じ「海中爆発物検査を通じて安全が確認されればビーチのより多くの区域を開放する予定。開放された海水浴場には爆発物から人々を保護するための救命ボートとネットが必要で、必要な場合にはより多くの黒海海域を調査するためにダイバーを派遣するだろう」と説明した。
オデーサのトゥルハノフ市長は海水浴場オープンを伝えながら「個人的な意見では私たちの守護者たちがウクライナのために戦っている間、休養としてのビーチ休暇は遅い感がある」と話した。
◇ベトナム戦争で米軍はダナンやパタヤで休暇
このように戦争の最中の所で休暇を過ごす風景はにわかに信じられないが、歴史上では戦争と休暇が向き合っているような姿がたびたび現れる。
ベトナム戦争(1955~1975年)の時もそうだった。南北に長いベトナムの「腰」に当たるダナンは激しい戦闘があった激戦地でありながら派兵米軍の休養地だった。戦争当時ダナン市内から北に約12キロメートル離れたチャイナビーチでは米軍が作ったR&R(Rest&Recuperation)センターでサーフィンし、ヨットに乗る軍人を見ることができた。派兵軍人は1年に1度5日から1週間の休暇を得て当時米軍の主要空軍基地であるタンソンニャットを通じてダナンで休暇を楽しんだ。
タイのパタヤもベトナム戦争中に発展した休養地だ。パタヤは米軍のB52爆撃機が出撃したタイのウタパオ空軍基地と首都バンコクの間にあった閑静な漁村だった。休暇のために訪れる米軍が増え1970年代にホテル業が繁盛し世界的な休養地に発展した。米国がベトナム戦争に全面介入した1965年から終戦直前である1973年まで米軍将兵70万人がパタヤビーチで休暇を楽しんだという。
クロアチアの「地上の楽園」ドブロブニクも近隣地域の紛争にもかかわらず旅行客の訪問が続いた事例だ。25年前のコソボ戦争(1998~1999年)当時、コソボが近いドブロブニク空港は戦争のため閉鎖と開放を繰り返した。
だが当時のニューヨーク・タイムズの報道によるとドブロブニクには戦争期間である1998年2~4月に1万3526人の観光客が訪れた。当時ドブロブニク観光庁の報道官は同紙に、観光業が困難を経験していると伝えながらも「1日に200人程度は着実に訪問している」と明らかにした。
ウクライナ戦争が勃発して19カ月、戦争と休暇という似合わない2つの単語が出会う所がある。美しいビーチときらびやかな日差しで有名なクリミア半島の話だ。
「黒海の宝石」と呼ばれるクリミア半島は2021年にロシア本土からだけで950万人が訪れたロシア人の代表的な夏の休養地だ。ロイター通信など外信は昨年の戦争勃発後に数は多少減ったが、夏休みのためクリミア半島を訪れるロシア人が続いていると報道した。
◇52時間の列車旅行も甘受
ロイターによると、戦争前にはロシアのシベリアからクリミア半島まで飛行機で約4時間で到着できた。だが最近は少なくとも1日半かかる。
シベリアからモスクワまで飛行機で行った後、列車に乗り換えなければならないためだ。モスクワから約1300キロメートル北に離れた所から列車だけで52時間かけクリミア半島に休暇に行く観光客もいるとロイターは伝えた。
戦争のため旅客機がクリミア半島の上空を運航できないためだ。ウクライナがロシアとクリミア半島をつなぐクリミア大橋を2度攻撃した後、ロシア当局はクリミア半島の航空路を全面閉鎖した。
クリミア半島での休暇のもっと大きな障害は安全上のリスクだ。最近クリミア半島は軍基地や空港などの主要施設と装備を打撃しようとするウクライナのドローンとこれを撃墜しようとするロシア軍の防空網の間で激戦場になった。そのため「黒海の宝石」のクリミア半島が「戦争の新たな火薬庫」になったという話も出てきた。
実際に民間人が被害を受ける事件も起きた。ロシア国家対テロ委員会(NAC)によると、7月にウクライナの無人艇にクリミア大橋が爆破された時にロシア人家族の車が被害を受けた。乗っていた夫婦は死亡し同乗した14歳の娘が重傷を負った。
こうした状況だが一部のロシア人はロシアの防空システムを信じると言いながら安全上のリスクを無視しているとロイターは伝えた。クリミア半島のある旅行ガイドはウォール・ストリート・ジャーナルに「多くのロシア人がウクライナ発の『フェイクニュース』に怖じ気づいたが、クリミア半島のビーチは依然として多くの人でにぎわっている」と明らかにした。
◇「ロシアの標的」オデーサで海水浴
ロシアと戦争をするウクライナも休養地を用意している。黒海沿岸にあるウクライナのオデーサ市当局は先月海水浴場6カ所をオープンするなどビーチを開放した。ロシア軍の侵攻が始まって18カ月ぶりだ。オデーサはウクライナ最大の港であり、伝統的な避暑地だ。同時に7月にロシア軍の爆撃で20人以上の死傷者が出るほどロシア軍の主要攻撃目標でもある。
CNNによると、当局は空襲警報が発令されれば海水浴を禁止するという条件を付けた。ビーチ開放に合わせオデーサ軍事行政責任者はテレグラムを通じ「海中爆発物検査を通じて安全が確認されればビーチのより多くの区域を開放する予定。開放された海水浴場には爆発物から人々を保護するための救命ボートとネットが必要で、必要な場合にはより多くの黒海海域を調査するためにダイバーを派遣するだろう」と説明した。
オデーサのトゥルハノフ市長は海水浴場オープンを伝えながら「個人的な意見では私たちの守護者たちがウクライナのために戦っている間、休養としてのビーチ休暇は遅い感がある」と話した。
◇ベトナム戦争で米軍はダナンやパタヤで休暇
このように戦争の最中の所で休暇を過ごす風景はにわかに信じられないが、歴史上では戦争と休暇が向き合っているような姿がたびたび現れる。
ベトナム戦争(1955~1975年)の時もそうだった。南北に長いベトナムの「腰」に当たるダナンは激しい戦闘があった激戦地でありながら派兵米軍の休養地だった。戦争当時ダナン市内から北に約12キロメートル離れたチャイナビーチでは米軍が作ったR&R(Rest&Recuperation)センターでサーフィンし、ヨットに乗る軍人を見ることができた。派兵軍人は1年に1度5日から1週間の休暇を得て当時米軍の主要空軍基地であるタンソンニャットを通じてダナンで休暇を楽しんだ。
タイのパタヤもベトナム戦争中に発展した休養地だ。パタヤは米軍のB52爆撃機が出撃したタイのウタパオ空軍基地と首都バンコクの間にあった閑静な漁村だった。休暇のために訪れる米軍が増え1970年代にホテル業が繁盛し世界的な休養地に発展した。米国がベトナム戦争に全面介入した1965年から終戦直前である1973年まで米軍将兵70万人がパタヤビーチで休暇を楽しんだという。
クロアチアの「地上の楽園」ドブロブニクも近隣地域の紛争にもかかわらず旅行客の訪問が続いた事例だ。25年前のコソボ戦争(1998~1999年)当時、コソボが近いドブロブニク空港は戦争のため閉鎖と開放を繰り返した。
だが当時のニューヨーク・タイムズの報道によるとドブロブニクには戦争期間である1998年2~4月に1万3526人の観光客が訪れた。当時ドブロブニク観光庁の報道官は同紙に、観光業が困難を経験していると伝えながらも「1日に200人程度は着実に訪問している」と明らかにした。
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