1950年ごろのオッペンハイマー(右)とアインシュタイン。当時彼らは米プリンストン高等研究所でともに勤めた。映画『オッペンハイマー』にも彼らの格別の関係が登場する。[写真 ウィキペディア]
『オッペンハイマー』は容易ではない映画だ。量子力学、米国・ドイツ・ソ連の原爆競争、オッペンハイマーの仕事と愛などが3時間にわたりぎっしり絡み合う。その真ん中に共産主義者論争がある。変わり者物理学者オッペンハイマーの伝記であり彼が生きた時代に対する診断書だ。映画を見てから脚本集を読んで全体の流れを振り返ってみたりもした。
映画の原作は2006年にピューリッツァ賞を受賞したオッペンハイマー評伝『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』(原題・『アメリカン・プロメテウス』)だ。「原爆の父」から「反逆者」に追いやられたオッペンハイマーを、人類に火を与えたことで神の罰を受けたギリシャ神話のプロメテウスに例えた。水素爆弾に反対したことを理由に共産主義者扱いされ、ソ連のスパイの疑いを受けたオッペンハイマーの公聴会のシーンが話を引っ張っていく。1954年に共産主義者のレッテルを貼られたオッペンハイマーは68年ぶりの昨年末にスパイの汚名をそそいだ。
オッペンハイマーは問題的人間だった。科学者ながらもスペイン内戦の共和派を後援し、古代インド経典『バガバッド・ギーター』をサンスクリット語で読んだ。ピカソの絵が好きで、T・S・エリオットの『荒地』を閲読した。妻と弟らが米国共産党に身を置いたりもした。だが彼は剥製になった理念に反対した。映画序盤に出てくるせりふの一節。「より良い世界を作るためには自由な思考が必要です。なぜひとつのドグマに自身を閉じ込めようとするのでしょう」。
オッペンハイマー評伝の共著者であるカイ・バードは映画脚本集序文でこのように語る。「オッペンハイマーは1950年代の魔女狩りの最大の犠牲者だ。1633年にガリレオがローマ教会法廷で侮辱されたように。…米国社会が政治と科学に対し率直に討論する能力を損傷された点がオッペンハイマーの本当の悲劇」と主張した。
一面では理解できる。1950年代は米ソ冷戦が本格化した時期だ。資本主義対共産主義の対立が極に達した。韓半島(朝鮮半島)でも金日成(キム・イルソン)の南侵にともなう韓国戦争(朝鮮戦争)の悲劇が起きた。それでも昔も今も存在感が極度にわずかな米国共産党を前面に出して1人の天才科学者を押し倒した時代の狂気はまだ消えずにいる。
このごろ韓国社会も時ならぬ理念戦争で目がくらむようだ。その発信地が尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権の竜山という点で当惑する。北朝鮮の核兵器を頭に載せて暮らす時点で共産主義に対する警戒心は必須だが、洪範図(ホン・ボムド)将軍らの抗日独立運動をソ連・中国共産党に連結し、現政権批判勢力を共産全体主義と規定するのは「やぶから棒」だ。1970年代の反共時代に戻ったような錯覚まで感じる。「コリアン・プロメテウス」でも作ろうというのだろうか。
尹大統領の言葉は悲壮で直接的だ。また、ますます強度が強まる感じだ。大統領は「鳥は左右の羽根で飛ぶ」の代わりに「鳥は飛んで行く方向が同じでこそ飛ぶことができる」と強調した。だが21世紀の多元化社会で「同じ方向」は場合によってはまた別の全体主義を呼ぶ恐れがある。文字通り「時季はずれ」の理念分裂をあおりかねない。
なぜいま共産主義を連日拒否するのか。それだけ時代が危険だということだろうか、そうでなければ国政に対する自信不足だろうか。ただひとつは明らかだ。民心は乱すことより縫い合わせるのがはるかに難しい。核分裂(原子爆弾)より核融合(水素爆弾)が高難度であるのと同じだ。保守・進歩はさておきこれまで何度も強調してきた公正と常識、自由と実用の2つの翼からまともに広げるべきだ。
パク・ジョンホ/首席論説委員
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