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【噴水台】新羅の将軍、異斯夫

新羅(シルラ)の将軍、異斯夫(イサブ)は智将だった。『三国史記』新羅本紀によると、異斯夫は荒ぶる反逆の島、于山国(鬱陵島=ウルルンド)を簡単な計略で征服した。 

512年、彼は木で作った獅子を船に積んで島に到着した。獅子の彫刻を海岸側に立てた後、硫黄の火をつけ、あたかも獅子の口から火炎が吹き出るように偽り、太鼓と螺角で轟音を出した。

また「降参しなければ、獅子を島に解き放ってみな踏み倒し、噛み殺してやる」と脅迫し、本当に降服を勝ち取った。鬱陵島の南陽浦(ナムヤンポ)に立っている獅子岩が、その物証だという伝説が今も残っている。 


その後、于山国は新羅を経て、高麗(コリョ)と朝鮮(チョソン)の領土になったが、実際は韓民族の流民と倭寇が争い、奪い奪われる血闘が繰り返されてきた。

朝鮮初期、対馬の日本人が鬱陵島に移住したいと申し出たが、太宗(テジョン、注:朝鮮3代王)が許可しなかったという記録を見ると、所有権は厳然と朝鮮王室にあった。

しかし太宗は、倭寇による被害が絶えないと、鬱陵島から朝鮮人をすべて撤収させる空島(注:島を空けること)政策を選んだ。所有権を持つ者が放置した中で、鬱陵島は依然として朝鮮の流民と倭寇が争う紛争の島として残った。 

朝鮮王室が所有権を公式に再確認したのは、王朝末期の1882年。鬱陵島内の朝鮮人村が燃えるなどの被害が相次ぐと、高宗(コジョン、注:朝鮮第26代王)は検察使の李奎遠(イ・ギュウォン)を派遣した。

検察使は鬱陵島内の日本人と面談し、彼らが鬱陵島を自らの土地だと信じていることを確認した。彼らの主張の根拠は「大日本国松島」と書かれた標木だった。明治2年(1869年)に立てられたから、何と13年間も鬱陵島が日本の地に変身していたわけだ。

検察使は高さ2メートル、幅30センチの大きさの標識を抜き出して焼いた後、残った灰をかごに入れて石と一緒に深い海に投げてしまった。朝鮮王室の抗議で、翌年日本人らはみな島から出て行った。 

青い海にそびえ立つ火山島の鬱陵島は、数多くの迂余曲折の末、韓国の土地として堅く位置付けられた。 貴重な動植物とともに生きていく奇巌絶壁の秘境は、今も変わらない。

環境部が鬱陵島と独島(ドクト、日本名・竹島)を一緒にして海上国立公園に指定することにしたのは、今さら遅すぎる感があり、嘆くべきことだ。にもかかわらず、日本の外務省が独島の領有権を主張し、抗議するという知らせが、大韓海峡を越えてきた。異斯夫将軍があの世で笑っている。



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