東京新大久保の高麗博物館で開かれている企画展「関東大震災100年‐隠蔽された朝鮮人虐殺」で当時惨状を描いた合計2巻で構成された32メートルの巻き物の絵が一般に初公開された。
高麗博物館前館長で専修大学歴史学教授の新井勝紘氏が公開したこの絵の1巻目の最後には朝鮮人の虐殺場面が生々しく描かれている。手にこん棒や竹槍を持った自警団が必死に逃げる朝鮮人を追いかけて、学生帽子をかぶったある青年は逃げていたところ刃物に刺されたのか、肩から腕にかけて鮮血がほとばしっている。武装した軍人と自警団に追われる朝鮮人の後ろには山のように積み重なった死骸が描かれている。
絵が描かれたのは関東大震災(1923年9月1日)が起きてから3年後の1926年。うわさを頼りに捜した末、作家は淇谷というペンネームの大原弥市という人物であることが確認された。
1862年、福島で生まれて約40年間小学校の教師を務めていた淇谷は退職後2年という時間を関東大震災の惨状を記録するために注ぎ込んだ。淇谷は序文に「このような惨禍に遭遇して、多くの人々に見せて反省の心を促すためのもの」という説明を残している。
高麗博物館の戸田光子理事は30日、「日本政府は関東大震災当時朝鮮人虐殺が起きたという事実を認めないでいるが、多くの政府の公式文書と記録化を通じて虐殺が存在したことを確認することができる」とし「最近日本の教科書では虐殺という単語が消えている」と懸念した。戸田氏は「負の歴史を直面し、実際に起きたことを知ることからが新しい日韓関係の始まり」としながら「日本政府の反省が必要だ」と話した。
高麗博物館前館長で専修大学歴史学教授の新井勝紘氏が公開したこの絵の1巻目の最後には朝鮮人の虐殺場面が生々しく描かれている。手にこん棒や竹槍を持った自警団が必死に逃げる朝鮮人を追いかけて、学生帽子をかぶったある青年は逃げていたところ刃物に刺されたのか、肩から腕にかけて鮮血がほとばしっている。武装した軍人と自警団に追われる朝鮮人の後ろには山のように積み重なった死骸が描かれている。
絵が描かれたのは関東大震災(1923年9月1日)が起きてから3年後の1926年。うわさを頼りに捜した末、作家は淇谷というペンネームの大原弥市という人物であることが確認された。
1862年、福島で生まれて約40年間小学校の教師を務めていた淇谷は退職後2年という時間を関東大震災の惨状を記録するために注ぎ込んだ。淇谷は序文に「このような惨禍に遭遇して、多くの人々に見せて反省の心を促すためのもの」という説明を残している。
高麗博物館の戸田光子理事は30日、「日本政府は関東大震災当時朝鮮人虐殺が起きたという事実を認めないでいるが、多くの政府の公式文書と記録化を通じて虐殺が存在したことを確認することができる」とし「最近日本の教科書では虐殺という単語が消えている」と懸念した。戸田氏は「負の歴史を直面し、実際に起きたことを知ることからが新しい日韓関係の始まり」としながら「日本政府の反省が必要だ」と話した。
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