◆プーチン氏の信頼失って政治基盤弱まる
こうしたメドベージェフ氏の姿は「ツァー」と呼ばれる独裁者ウラジミール・プーチン氏とは完全に異なった。プーチン氏は米国など西側と対立して西欧文化を排斥し、独立メディアは閉鎖させている。政敵のアレクセイ・ナワリヌイ氏ら野党側の人物は容赦なく逮捕した。また10年以上もスマートフォンを使用せず、インターネットの門外漢として知られている。
プーチン氏と差別化を図るメドベージェフ氏の間に葛藤説が浮上し、メドベージェフ氏の大統領再任の可能性が高いという見方も出てきた。
しかしメドベージェフ氏は結局、プーチンという大きな山を越えることができなかった。2011年に大統領と首相が入れ替わるというプーチン前大統領の提案を受け入れた。しかしメドベージェフ氏を信頼しなくなったプーチン氏はその後、メドベージェフ氏の側近を切り捨てたとガーディアンは伝えた。
温室の草花のように育ったメドベージェフ氏は激しい野生馬として生きてきたプーチン氏を抑えるのが難しかった。メドベージェフ氏は旧ソ連時代の1965年9月14日にレニングラード(現サンクトペテルブルク)の中産層家庭で一人息子として生まれた。教授だった父の影響で大学時代まで友人と遊ぶこともなく勉強にまい進した模範生だったという。
半面、メドベージェフ氏より13歳年上のプーチン氏は貧しい時代を経験した。プーチン氏が育ったサンクトペテルブルクの共同住宅ではネズミがよく出ていた。1991年のソ連崩壊当時にはタクシー運転手として金を稼いだと告白した。プーチン氏もレニングラード大法大を卒業したが、メドベージェフ氏が学界に残ったのとは違い、プーチン氏は国家保安委員会(KGB)に入って情報要員として活動した。
2人は1991年にサンクトペテルブルク市庁で初めて会った。KGBをやめたプーチン氏は市庁傘下の対外関係委員会委員長に任命され、メドベージェフ氏はアナトリー・ソブチャク市長の法律補佐官になって対外関係委員会に入った。プーチン氏は勤勉で穏やかなメドベージェフ氏に注目し、彼の政治の師になった。
その後、プーチン氏が2000年に大統領になり、メドベージェフ氏は補佐官、秘書室長など最も近いところでプーチン氏を支えた。それでメドベージェフ氏が大統領になった後にも世間ではメドベージェフ氏を「プーチンの操り人形」などと呼んだ。ロシア国民も模範生イメージのメドベージェフ氏よりは男性美を見せるマッチョ性向のプーチン氏を好んだ。
◆生き残るため超強硬派に変身
メドベージェフ氏は大統領から退いた後、プーチン氏の信頼を取り戻すために死力を尽くしたが、2020年にはプーチン氏の意で首相からも離れた。国家安全保障会議副議長を務めたが、慰労レベルで与えられた席だったと、米経済メディアのビジネスインサイダーは伝えた。
このようにロシア首脳部での立場が狭まると、活路を模索するために強硬路線に旋回したという分析が多い。英ユニバーシティカレッジロンドン(UCL)のベン・ノブル露政治学科教授は「メドベージェフ氏は弱まった政治的基盤を補完するための戦略から激しい発言を始めた」とし「従来の強硬派よりはるかに強硬な姿を見せて差別化することに集中している」と伝えた。
ただ、ノブル教授は「メドベージェフ氏は常にプーチン氏などロシア高位層の歓心を買うために何でもする用意があるようだ」とし、状況によっては強硬派として残らない可能性もあるという見方を示した。
欧州政策分析センターのエドワード・ルーカス顧問は「ロシア首脳部が進歩的であることを望めば彼は自由主義者になり、強硬派になることを望めば強硬派になるだろう」とし「もしプーチン氏がウクライナと平和協定を結ぶ考えなら、メドベージェフ氏はすぐに変わり『ずっと望んできた立派な結果』と喜ぶ発言をするとみられる」と話した。
メドベージェフ氏は再び権力の中心に立とうとしている。メドベージェフ氏は大統領から退いた2012年11月、AFPに「私はその川で一度泳いだが、その川は2度泳ぐことができる川なので、絶対にないという話はすべきでない」と語った。
しかし専門家らはメドベージェフ氏が強硬路線を歩むとしても、政治基盤が弱いうえナンバー2のイメージが強いため再執権は難しいとみている。ロシア政治関連の本を10冊ほど出している作家J.L.ブラック氏は「メドベージェフ氏の強硬派戦略は、プーチン氏が粛清されたり、別の右派が執権する場合に備えて現在の自分の地位を維持するための手段である可能性が高い」と話した。
「クリミア半島侵攻なら核戦争」と警告した「プーチンの口」…オバマ氏と共にハンバーガー食べた仲(1)
こうしたメドベージェフ氏の姿は「ツァー」と呼ばれる独裁者ウラジミール・プーチン氏とは完全に異なった。プーチン氏は米国など西側と対立して西欧文化を排斥し、独立メディアは閉鎖させている。政敵のアレクセイ・ナワリヌイ氏ら野党側の人物は容赦なく逮捕した。また10年以上もスマートフォンを使用せず、インターネットの門外漢として知られている。
プーチン氏と差別化を図るメドベージェフ氏の間に葛藤説が浮上し、メドベージェフ氏の大統領再任の可能性が高いという見方も出てきた。
しかしメドベージェフ氏は結局、プーチンという大きな山を越えることができなかった。2011年に大統領と首相が入れ替わるというプーチン前大統領の提案を受け入れた。しかしメドベージェフ氏を信頼しなくなったプーチン氏はその後、メドベージェフ氏の側近を切り捨てたとガーディアンは伝えた。
温室の草花のように育ったメドベージェフ氏は激しい野生馬として生きてきたプーチン氏を抑えるのが難しかった。メドベージェフ氏は旧ソ連時代の1965年9月14日にレニングラード(現サンクトペテルブルク)の中産層家庭で一人息子として生まれた。教授だった父の影響で大学時代まで友人と遊ぶこともなく勉強にまい進した模範生だったという。
半面、メドベージェフ氏より13歳年上のプーチン氏は貧しい時代を経験した。プーチン氏が育ったサンクトペテルブルクの共同住宅ではネズミがよく出ていた。1991年のソ連崩壊当時にはタクシー運転手として金を稼いだと告白した。プーチン氏もレニングラード大法大を卒業したが、メドベージェフ氏が学界に残ったのとは違い、プーチン氏は国家保安委員会(KGB)に入って情報要員として活動した。
2人は1991年にサンクトペテルブルク市庁で初めて会った。KGBをやめたプーチン氏は市庁傘下の対外関係委員会委員長に任命され、メドベージェフ氏はアナトリー・ソブチャク市長の法律補佐官になって対外関係委員会に入った。プーチン氏は勤勉で穏やかなメドベージェフ氏に注目し、彼の政治の師になった。
その後、プーチン氏が2000年に大統領になり、メドベージェフ氏は補佐官、秘書室長など最も近いところでプーチン氏を支えた。それでメドベージェフ氏が大統領になった後にも世間ではメドベージェフ氏を「プーチンの操り人形」などと呼んだ。ロシア国民も模範生イメージのメドベージェフ氏よりは男性美を見せるマッチョ性向のプーチン氏を好んだ。
◆生き残るため超強硬派に変身
メドベージェフ氏は大統領から退いた後、プーチン氏の信頼を取り戻すために死力を尽くしたが、2020年にはプーチン氏の意で首相からも離れた。国家安全保障会議副議長を務めたが、慰労レベルで与えられた席だったと、米経済メディアのビジネスインサイダーは伝えた。
このようにロシア首脳部での立場が狭まると、活路を模索するために強硬路線に旋回したという分析が多い。英ユニバーシティカレッジロンドン(UCL)のベン・ノブル露政治学科教授は「メドベージェフ氏は弱まった政治的基盤を補完するための戦略から激しい発言を始めた」とし「従来の強硬派よりはるかに強硬な姿を見せて差別化することに集中している」と伝えた。
ただ、ノブル教授は「メドベージェフ氏は常にプーチン氏などロシア高位層の歓心を買うために何でもする用意があるようだ」とし、状況によっては強硬派として残らない可能性もあるという見方を示した。
欧州政策分析センターのエドワード・ルーカス顧問は「ロシア首脳部が進歩的であることを望めば彼は自由主義者になり、強硬派になることを望めば強硬派になるだろう」とし「もしプーチン氏がウクライナと平和協定を結ぶ考えなら、メドベージェフ氏はすぐに変わり『ずっと望んできた立派な結果』と喜ぶ発言をするとみられる」と話した。
メドベージェフ氏は再び権力の中心に立とうとしている。メドベージェフ氏は大統領から退いた2012年11月、AFPに「私はその川で一度泳いだが、その川は2度泳ぐことができる川なので、絶対にないという話はすべきでない」と語った。
しかし専門家らはメドベージェフ氏が強硬路線を歩むとしても、政治基盤が弱いうえナンバー2のイメージが強いため再執権は難しいとみている。ロシア政治関連の本を10冊ほど出している作家J.L.ブラック氏は「メドベージェフ氏の強硬派戦略は、プーチン氏が粛清されたり、別の右派が執権する場合に備えて現在の自分の地位を維持するための手段である可能性が高い」と話した。
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