韓国の尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が徴用問題で大きく譲歩した後、岸田首相も前向きな姿勢を見せている。主要7カ国首脳会議(G7サミット)開催地の広島で韓日首脳は韓国人原爆犠牲者慰霊碑を初めて共に参拝した。大きな慰労になった。しかし日本では「原爆加害国・米国」のバイデン大統領が謝罪をすべきだという声も出てきた。
強制徴用と慰安婦動員の加害者である第2次世界大戦の戦犯国・日本が被害者に転換される場面だ。戦後日本の「被害者意識」は謝罪と反省をためらわせた。こうした奇妙な心理構造をつくったのは戦勝国の米国だった。裕仁天皇を退位させれば日本社会が崩壊すると判断し、免罪符を与えた。
東京戦犯裁判はナチを断罪したニュルンベルク戦犯裁判とは異なる状況だった。『敗北を抱きしめて(Embracing Defeat)』の著者ジョン・ダワー米マサチューセッツ工科大学(MIT)名誉教授は「『勝者の証拠』を操作して敗戦国の首長を救済する形態」と批判した。「A級戦犯」は団結して天皇を保護したが、一つ失敗があった。首相として戦時内閣を率いた東条英機が「天皇の意に反する行動をすることは考えられない」と述べたのだ。
すると首席検事のジョセフ・キーナンは天皇補佐担当機関を通して証言を撤回すべきだと懐柔し、東条は受け入れた。マッカーサー連合国最高司令部の歴史歪曲だった。責任者の天皇が責任を負わないため国民は言うまでもなかった。そこに広島と長崎が人類最初の核爆弾攻撃を受けたという事実が重なった。
アジア全体を戦場にした日本は自国憐憫のアリバイを発見した。残酷な被害を与えながらも省察はなく、責任も負わなかった。ただ、占領国の米国の良き友になることを至上課題として疾走した。村山、小渕、菅首相の植民支配に対する反省・お詫びがあったが、政治家の妄言で色あせた。世界3位の経済大国であり文明国の日本がアジア統合の障害になった理由だ。
「被害者意識」を克服した巨人もいた。中曽根元首相は保守だったが、1984年に共産中国を訪問して数百億ドルの援助を提供した。その資金で北京と上海に空港と地下鉄が建設された。中曽根氏は「戦争時に苦難をもたらしたことに遺憾を表明するため援助金額を増やそう」とし、頑固な官僚を説得した。趙紫陽に「中国は北朝鮮から、日本は韓国から密書を受け、南北対話を仲裁しよう」と述べた。日本首相として初めて1983年に韓国を訪問した当時は外務省の官僚にも諮問しなかった。
明仁天皇も『逮捕されて帰って来ることができない』という右派の反対を退け、1992年に中国を訪問した。「中国国民に対し多大の苦難を与えた」と認めて「深い悲しみ」を述べた。小泉元首相は2002年に平壌(ピョンヤン)を訪問し、植民統治について謝罪した。金正日(キム・ジョンイル)総書記は日本人拉致事件について謝罪した。北朝鮮訪問を終えた時、外務省審議官の家に「反逆者」というメモと共に爆発物が設置されたが、揺らぐことはなかった。
尹大統領が決断したが、「日本の植民侵略に対する免罪符」という韓国国内の批判は相変わらずだ。心情は理解するが、日本の侵略戦争で1000万人以上が死傷した中国の対処方式を見れば考えが変わるだろう。中国は自分たちが参戦した韓国戦争(朝鮮戦争)中の1951年にも、貿易を再開しようと「米国の兵たん基地」の日本に要求した。翌年、貿易協定が締結された。
中国専門家サイモン・リースは首相として中国外交を指揮した周恩来について「実用主義者の前では実用主義者、哲学者の前では哲学者、キッシンジャーに会えばキッシンジャーになった」とし「カメレオン」と表現した。1961年に日本社会党代表と合った毛沢東は「中国を侵略してくれて感謝する」と語った。日本軍が触発した混乱のため共産党が執権したということだ。我々も抽象的な理念と感情よりも現実的な国益と戦略を重視する必要がある。
ジャレド・ダイアモンドは著書『銃・病原菌・鉄』で「(韓日は)同じ血を分けて成長期を共に送った一卵性双子の兄弟のようだ」とした。笑いながら不意打ちを食らわせる「相互依存性の武器化(Weaponization of interdependence)」を破らなければいけない。「過去に留まる者は片目を失い、過去を忘れた者は両目を失う」というロシアの格言がある。韓日国交正常化60周年の2025年を目標に両国は歴史和解プロセスに入るのがよい。
両国が率先して中国と手を握れば、アジア特有の躍動的なエネルギーと数千年にわたり蓄積された文明の力が発揮されるだろう。欧州が羨むアジア平和・経済共同体を築くことができる。米国との健康な同盟関係構築にもプラスとなる。日本も尹錫悦式の決断を出す時だ。過去を直視し、新しい時代を開く尹錫悦-岸田宣言を期待する。
李夏慶(イ・ハギョン)/論説委員
強制徴用と慰安婦動員の加害者である第2次世界大戦の戦犯国・日本が被害者に転換される場面だ。戦後日本の「被害者意識」は謝罪と反省をためらわせた。こうした奇妙な心理構造をつくったのは戦勝国の米国だった。裕仁天皇を退位させれば日本社会が崩壊すると判断し、免罪符を与えた。
東京戦犯裁判はナチを断罪したニュルンベルク戦犯裁判とは異なる状況だった。『敗北を抱きしめて(Embracing Defeat)』の著者ジョン・ダワー米マサチューセッツ工科大学(MIT)名誉教授は「『勝者の証拠』を操作して敗戦国の首長を救済する形態」と批判した。「A級戦犯」は団結して天皇を保護したが、一つ失敗があった。首相として戦時内閣を率いた東条英機が「天皇の意に反する行動をすることは考えられない」と述べたのだ。
すると首席検事のジョセフ・キーナンは天皇補佐担当機関を通して証言を撤回すべきだと懐柔し、東条は受け入れた。マッカーサー連合国最高司令部の歴史歪曲だった。責任者の天皇が責任を負わないため国民は言うまでもなかった。そこに広島と長崎が人類最初の核爆弾攻撃を受けたという事実が重なった。
アジア全体を戦場にした日本は自国憐憫のアリバイを発見した。残酷な被害を与えながらも省察はなく、責任も負わなかった。ただ、占領国の米国の良き友になることを至上課題として疾走した。村山、小渕、菅首相の植民支配に対する反省・お詫びがあったが、政治家の妄言で色あせた。世界3位の経済大国であり文明国の日本がアジア統合の障害になった理由だ。
「被害者意識」を克服した巨人もいた。中曽根元首相は保守だったが、1984年に共産中国を訪問して数百億ドルの援助を提供した。その資金で北京と上海に空港と地下鉄が建設された。中曽根氏は「戦争時に苦難をもたらしたことに遺憾を表明するため援助金額を増やそう」とし、頑固な官僚を説得した。趙紫陽に「中国は北朝鮮から、日本は韓国から密書を受け、南北対話を仲裁しよう」と述べた。日本首相として初めて1983年に韓国を訪問した当時は外務省の官僚にも諮問しなかった。
明仁天皇も『逮捕されて帰って来ることができない』という右派の反対を退け、1992年に中国を訪問した。「中国国民に対し多大の苦難を与えた」と認めて「深い悲しみ」を述べた。小泉元首相は2002年に平壌(ピョンヤン)を訪問し、植民統治について謝罪した。金正日(キム・ジョンイル)総書記は日本人拉致事件について謝罪した。北朝鮮訪問を終えた時、外務省審議官の家に「反逆者」というメモと共に爆発物が設置されたが、揺らぐことはなかった。
尹大統領が決断したが、「日本の植民侵略に対する免罪符」という韓国国内の批判は相変わらずだ。心情は理解するが、日本の侵略戦争で1000万人以上が死傷した中国の対処方式を見れば考えが変わるだろう。中国は自分たちが参戦した韓国戦争(朝鮮戦争)中の1951年にも、貿易を再開しようと「米国の兵たん基地」の日本に要求した。翌年、貿易協定が締結された。
中国専門家サイモン・リースは首相として中国外交を指揮した周恩来について「実用主義者の前では実用主義者、哲学者の前では哲学者、キッシンジャーに会えばキッシンジャーになった」とし「カメレオン」と表現した。1961年に日本社会党代表と合った毛沢東は「中国を侵略してくれて感謝する」と語った。日本軍が触発した混乱のため共産党が執権したということだ。我々も抽象的な理念と感情よりも現実的な国益と戦略を重視する必要がある。
ジャレド・ダイアモンドは著書『銃・病原菌・鉄』で「(韓日は)同じ血を分けて成長期を共に送った一卵性双子の兄弟のようだ」とした。笑いながら不意打ちを食らわせる「相互依存性の武器化(Weaponization of interdependence)」を破らなければいけない。「過去に留まる者は片目を失い、過去を忘れた者は両目を失う」というロシアの格言がある。韓日国交正常化60周年の2025年を目標に両国は歴史和解プロセスに入るのがよい。
両国が率先して中国と手を握れば、アジア特有の躍動的なエネルギーと数千年にわたり蓄積された文明の力が発揮されるだろう。欧州が羨むアジア平和・経済共同体を築くことができる。米国との健康な同盟関係構築にもプラスとなる。日本も尹錫悦式の決断を出す時だ。過去を直視し、新しい時代を開く尹錫悦-岸田宣言を期待する。
李夏慶(イ・ハギョン)/論説委員
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