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【時視各角】ヒロシマの3度目の衝撃

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
#1.終戦60年を3日後に控えた2005年8月3日、広島で会った坪井直さん。当時80歳。平和記念公園内にある原爆ドーム前で目を赤くして首をうな垂れていた。彼の証言は衝撃だった。

広島大学2年生だった坪井さんは被爆中心地で1キロほど離れたところにいた。閃光を感じた直後、体が10メートルほど弾き飛ばされた。意識を取り戻した時は激しい火傷で全身の皮膚が真っ黒に焼けてただれていた。ぼやける空の下、1週間「悪い米国やつら!」と叫んで狂ったように路上を歩き回り、意識を失ってしまった。40日ぶりに目覚めたが1年間起き上がれなかった。放射線で脊髄が破壊されて激しい貧血状態だったからだ。それよりももっと痛かったのは胸の中の傷だといった。「娘が5回も流産したとき、胸が張り裂けるような思いだった。被爆者である私のせいのような気がして本当に死にたいという思いしかなかった」。

それから8年後。私にはまた別の「ヒロシマショック」があった。


今はもう会社を離れたある先輩が書いたコラムのためだった。彼は広島原爆投下を「神の懲罰」であり日本軍国主義で犠牲になったアジア人の復しゅうだと言った。安倍の言動を非難して「日本に対する火雷(爆撃)が足りないと判断するのも、神の自由だ」と書いた。このコラムのせいで中央日報東京総局の建物には1カ月以上にわたり右翼団体の車両が集まった。やさしかった日本の知人たちも顔を赤くして詰問した。私は頭を下げた。最も苦しかったのは「では当時犠牲になった罪のない数多くの韓国人は何なのか。彼らも神の懲罰を受けたということなのか」という在日同胞の鬱憤に充ちた抗議だった。私は代わりに贖罪した。

#2.そうだった。広島で原爆投下によって犠牲になった韓半島(朝鮮半島)出身者は2万人を超える。広島全体犠牲者の13%だ。強制徴用で連れて来られたか、日帝治下で日々の暮らしが乏しくて玄海灘を渡った人々だ。現在、広島平和公園の中にそびえ立っている韓国人犠牲者慰霊碑は彼らを悼む象徴だ。ここには私たちの民族の悲劇と涙が染み込んでいる。

まず朝鮮王族の李ウ(1912~45)の悲劇的な死がそうだ。李ウは独立運動を支援し、日本の懐柔に最後まで抵抗した義親王の次男だ。韓国語を使って秘密裏に独立資金を集めた。当時李ウは出勤途中に原爆を浴びた。午後遅く爆心地付近で見つかったが、翌日息を引き取ってしまった。

被爆在日同胞に対する差別もまた、私たちには消すことができない涙の歴史だ。海外同胞は記念公園の中に追悼碑を設置しようと東奔西走した。だが、広島市はこれを拒否した。空間がないという理由だった。やむを得ず在日同胞は1970年公園の外に慰霊碑を立てた。29年の歳月をそのようにして送った。しかし海外同胞の持続的な努力で慰霊碑は99年、現位置に移された。私は彼らが秘めていた深い「恨(ハン)」、不屈の犠牲を考えるたびに胸が熱くなり、尊敬の念が沸き起こる。

#3.来週ここ広島で主要7カ国(G7)首脳会議(サミット)が開かれる。広島出身の岸田首相は「核なき世界」を叫ぶ。そのような岸田首相が7日、韓日首脳会談で「尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領と共に韓国人犠牲者慰霊碑を参拝する」と話した。率直に今度は驚き、うれしいバージョンの「ヒロシマショック」だった。原爆を落とした米国のオバマ大統領も2016年広島平和公園慰霊碑を訪れたが、歩いて2分の距離の韓国人慰霊碑には立ち寄らなかった。

岸田首相としては韓国と手を握って核のない世の中を作っていくという意志の表れではないかと思う。だが、別の見方をすれば、太平洋戦争、強制徴用者に対する反省と謝罪と読むこともできる韓国人慰霊碑への参拝をするというのは勇敢な決断だ。認めるべきことは認めよう。多くの人々が「痛切な反省」「心からのお詫び」という「1998年のワーディング(話)」を召還させようとする。もちろん必要だ。しかしそれに劣らず、いやそれ以上に「2023年の行動」こそ、大切で貴重な、私たちが渇望した同行の価値ではないか。来週、広島の晴れ渡った空の下、両首脳がその第一歩を踏み出すことを期待してやまない。

金玄基(キム・ヒョンギ)/巡回特派員兼東京総局長



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