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植民支配責任絡まる徴用賠償、今度は日本が「譲歩」する番(2)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版

韓日協定調印式当日の1965年6月22日に反対デモに出た大学生。[中央フォト]

1950年6月25日に韓国戦争(朝鮮戦争)が勃発した。9月22日にダレス米国務長官顧問は韓国政府に日本との会談を勧めた。1951年9月8日にサンフランシスコで48カ国代表が「対日平和条約」に署名した。条約は日中戦争と太平洋戦争中に負った財産上の被害に対する請求だけ許容し植民地支配に対する賠償は論外とするという原則を再確認した。厳酷な冷戦体制の現実の前に李承晩政権は高額被害額案で持ちこたえた。

◇日本、韓国に払うべき資金で経済復興

韓日両国代表は1951年10月の予備会談を経て翌年2月15日に第1次会談を持った。韓国は戦時状況のため代表団は東京で会った。日本の大物政治家らが「妄言」を吐き出した。1953年10月15日の第2次会談中に日本側代表の久保田貫一郎は「カイロ宣言は連合国の戦時ヒステリーだ。36年間の統治は恩恵を施したものだ」と言った。1995年11月15日付で韓国外務部が作成した「日本政府・政治家らの過去歴史発言記録」は26件の妄言事例を収集している。関係正常化の妨害者は反省しない日本の政治家、まさに彼らだった。


1958年4月に始まった第4次会談は1960年まで続いた。この時、日本は韓国の第2共和国発足を機に「経済協力」論理で妥結を狙った。これまで米国の配慮で大きく成長した経済力を優位確保に活用しようとする変化だった。張勉(チャン・ミョン)政権は李承晩政権の方針を堅持して23億の賠償金を要求し会談は決裂した。1961年11月に訪米した朴正熙(パク・チョンヒ)国家再建最高会議議長が東京で池田勇人首相に会った。朴議長は「韓日両国の不名誉な歴史を掘り起こすより共同の理念と目標に向け過去史をたたみたい」と発言した。韓国が能動的に表明した「度量の大きい」譲歩だった。

1962年11月12日、「金鍾泌(キム・ジョンピル)・大平メモ」が作成された。無償3億ドルを10年間にわたり支払い、年利3.5%で7年から20年の償還条件の有償2億ドルと1億ドル以上の民間借款を提供するという請求権解決の原則に合意した。野党と学生の反対デモにより2年余り長引いたが1965年2月に椎名悦三郎外相が訪韓して「基本条約」草案が作成され、6月に国交正常化の韓日協定が調印された。韓国側の請求額は顕著に減った。総額5億ドルという金額すら現金でなく「日本国の生産物および日本人の用役」で提供された。

日本は米国の極東政策により戦後の経済繁栄を成し遂げた。修交交渉過程で韓国は請求額を大きく引き下げる譲歩をした。韓国が日本から受け取った請求権資金を経済開発の種銭にしたという通念が広まっているが、日本もやはり韓国に払うべき資金で経済復興にとても役立てたのでないか。1965年の韓日協定は幸い請求権とは別個に「基本条約」を締結して「大韓帝国と大日本帝国間で締結されたすべての条約と協定がすでに無効であることを確認する」という文言に民族の恨(ハン)を込めた。「すでに」の時点が両国間の争いの対象として残ったが、これは請求権とは別個に植民地支配問題を再論できる根拠になった。

1990年代以来「韓国併合」の違法性に関する資料発掘が行われ、その研究成果に基づいて2010年に「韓国併合100年韓日知識人共同声明」が出された。日本政府が併合の違法性を認めて両国問題を新たに解いていかなければならないという内容が盛り込まれた声明文に日本の知識人540人が署名した。植民地支配関連資料の発掘と公開は脱冷戦時代とかみ合わさった新しい状況だった。過去の韓日会談は植民地支配の責任問題を扱ったことがない。それならそれは請求権問題とは別個に両国が解かなければならない課題ではないのか。妄言と謝罪要求が続く中で両国は請求権と植民地支配の責任問題を区分できないほど弁別力を喪失していたのではないのか。突き詰めれば現在の徴用者賠償問題も2つの要素がからまって起きている難航だ。戦後冷戦体制の中で多くの恩恵を享受した日本がもう「譲歩」の大きな決断を下すべき番ではないか。

イ・テジン/ソウル大学名誉教授


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