본문 바로가기
이전 페이지로 가기 공유하기 주요 서비스 메뉴 열기

植民支配責任絡まる徴用賠償、今度は日本が「譲歩」する番(1)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版

朴正熙大統領が1965年12月17日、韓日協定批准書に署名している。[中央フォト]

7年間冷え込んでいた韓日関係正常化に向け尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が「度量の大きな」外交を行った。前政権の「竹槍歌」で両国関係が冷え込んだのも誤りだが、今回の決断が果たして所期の成果を上げられるのかに対する懸念も少なくない。与野党の冷静な省察に向け光復(解放)後1965年の韓日協定までの両国の交渉史を探ってみる。

韓日両国間の問題には当初から太平洋戦争戦勝国である米国の役割と影響が大きかった。1945年11月にトルーマン大統領は親交のある友人エドウィン・ポーレーを対日賠償使節団長として東京に派遣した。彼は日本だけでなく中国、満州などを視察して帰国した後、日本の軍国主義が復活できないよう日本の過度な工業設備を除去し侵略を受けた国々に移すべきと大統領に報告した。韓国に対しても賠償請求の一部として「朝鮮の資源と人民を搾取するために使われた」日本の産業設備を南朝鮮に移転すべきとした。カイロ宣言の精神を順守したのだ。

◇久保田「36年間の統治は恩恵施したもの」妄言


1946年、米軍政庁は対日賠償政策に基づき「特別経済委員会」を設立し韓日双方の賠償要求リストを作成した。南朝鮮の要求額は492億5428万円、日本の要求額は88億 939万円、これに伴い日本は差額403億6488万円を南朝鮮に支払う義務があるという結論を下した。米国のこうした姿勢は1947年8月まで持続した。1946年8月13日、米軍政は賠償理論開発に向け南朝鮮過渡政府に「対日賠償問題対策委員会」を設置し、朝鮮銀行(現韓国銀行)の調査資料をはじめとする金融資産主要資料を確保した。1948年1月に委員会は対日賠償要求総額を1兆4267億8601万9675円と計算したが、最終要求額は総額410億9250万円と整理した。日帝36年間の被害に対する解放後のわれわれの意識を見せる数字だ。

一方、米国は日本の新憲法公布2カ月後の1946年11月3日に新たな状況判断を下す。日本経済が厳しい中で「厳格な」対日賠償政策をそのまま実施すれば米国の日本占領費用増大により米国の納税者の負担が増える結果になるだろうという判断だった。当時米国は欧州にも戦後復興費として莫大な金額を投じていた。1947年1月に企業家でドイツでの民間住宅復興で功績を立てたクリッパード・ストライクを団長とする「対日賠償特別調査団」が日本にきた。調査団は現地の実状を視察して2月18日に「納税者論理」を盛り込んだ第1次報告書をマッカーサー司令官に提出し、1948年3月の第2次報告書には「冷戦論理」を加えた。冷戦体制が固まる中で日本の賠償負担を減らすことが極東全体の利益と指摘した。同年8月、「極東委員会」(1946年に連合国最高司令部の代わりに発足)が南朝鮮は極東委員会の構成員ではないため賠償配分の対象にならないという決定を下した。南朝鮮は日本人が残して行った財産の取得で満足しなければならないとした。初期の厳罰主義がひっくり返る瞬間であり、他意による譲歩を韓国が甘受しなければならない条件だった。

1948年秋、中国人民解放軍が満州で国民革命軍を撃破して翌年1月末に北京に入城した。そして10月に中華人民共和国が宣言された。ソ連のベルリン封鎖6カ月後だった。元に戻すことはできない冷戦体制の状況の中でも李承晩(イ・スンマン)政権は1949年初めに「対日賠償要求調書」をまとめ東京の連合国司令部に送った。同年10月に米国家安全保障会議は日本を反共の砦とするために対日平和条約はできるだけ「簡略に(breef)、一般的に(general)、非懲罰的に(non-punitive)」することを明示した。12月29日に日本の賠償責務をなくす方向で対日平和条約草案を作成した。1949年9月、李承晩政権は米国の方針を受け入れ「対日賠償要求調書」で植民地支配下の被害に該当する部分は除き残りを戦時被害補償要求金額でとらえた。24億ドルから4億ドル(金、銀、書籍など現物)程度を減らす線で修正して高額(20億ドル)を守り証明資料をそろえた。米国の政策に協力して韓国の主張を最大限守ろうとする苦心の対応だった。


植民支配責任絡まる徴用賠償、今度は日本が「譲歩」する番(2)

関連記事

この記事を読んで…

포토뷰어

最新記事

    もっと見る 0 / 0

    공유하기

    팝업닫기
    top 메뉴