韓国の尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領がすべてのカードを使った。「開門発車」という声を聞きながら日帝徴用問題に対して「被害者支援財団を通した第三者弁済」という解決策を急いで提示した。韓日関係の最大の障害物を解決するきっかけを作り、正常なシャトル外交が12年ぶりに復元された。日本の半導体素材輸出規制が解除され、軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の完全正常化が宣言された。
ところが核心の徴用問題に対する岸田首相の直接の謝罪はなかった。被告企業も賠償には参加できないという立場だ。日本では「完勝」というが、韓国では「屈辱的な交渉」という。韓国大統領は地雷畑のまん中に立っている。
日本は韓国人がなぜ憤怒するのかを知っているのだろうか。韓国はカイロ宣言にある通り「奴隷状態」で36年を過ごした。それで敗戦国の日本を相手にした連合国講和会議の正式メンバーとして参加しようとした。臨時政府が第2次世界大戦以前から日本と戦争状態にあり、中国に日本と戦った韓国人師団があり、上海臨時政府が宣戦布告した事実を米国に伝えた。至誠天に通ず。張勉(チャン・ミョン)駐米大使は1951年1月26日、米国務長官顧問ダレスから「韓国の参加を支持する」という返答を受けた。しかし英国と日本の反対で参加48カ国から除外された。不当で悔しいことだった。
日本は1951年3月27日に講和会議の草案を受けると、緻密に準備して4月4日に米国に意見書を伝えた。戦争中の韓国では文書が実務者の机の引き出しに眠っていた。法務部の洪ジン基(ホン・ジンギ)法務局長は4月7日、日本の新聞で韓日関係条項が抜けた草案を確認した。マッカーサー最高司令官だけを信じて消極的だった李承晩(イ・スンマン)大統領を必死に動かした。参加意思と帰属財産処理問題に対する立場を表した意見書が5月初めに伝えられたが、日本より1カ月遅れた。残念なことだ。
1951年9月にサンフランシスコで調印された講和条約は、韓国を台湾と共に「日本の支配から抜け出した地域」に分類した。過去の植民地ということだ。植民地支配の不法性が認められ、謝罪と法的賠償を受けようとしていた期待は水の泡となった。さらにあきれたのは、韓国が日本の一部だったため朝鮮人の強制動員が「合法」になってしまった事実だ。深刻な傷と侮辱だった。実際、米国は日本と戦争中だった1942年から国務省極東班を運営し、敗戦国の日本を国際社会に復帰させる「寛大な平和(soft peace)」を準備していた。日本に負担となる韓国の要求を聞き入れる余地は最初からなかったはずだ。
サンフランシスコ条約調印1カ月後の1951年10月、両国は韓日協定締結のための交渉に入った。初期に日本は自国民50万人が韓国に置いて行った財産に関する権利、逆請求権を提起した。朝鮮内の日本の財産は85%だった。日本側の久保田全権代表が「植民地時代に有益なことをしただけに日本にも請求権がある」と述べると、韓国側の洪ジン基代表は「伝統の国際法に植民地から解放された国の権利が追加されるべきだ」という「解放の論理」で反論した。日本は久保田の妄言を取り消し、逆請求権の主張も撤回した。
13年8カ月後の1965年6月22日に交渉は妥結した。日本は韓国に無償で3億ドル、有償で2億ドルを援助することにした。この資金は韓国経済の発展に大きく寄与した。しかし植民地支配に対しては「すでに無効」と整理した。韓国は「最初から無効」と解釈した。日本は「今は無効だが、当時は有効で合法的だった」と国会に報告した。植民地支配に対する反省と省察はなく、韓国人には傷がもう一つ追加された。それだけに「植民地支配は不法であり、日本は徴用被害者に賠償すべき」という2018年の大法院(最高裁)判決は、日本にとって「65年体制」を揺るがすショックだったのだ。日本が徴用問題を避ける理由だ。
にもかかわらず「65年体制」は時間が経過しながら進化した。日本は50回ほどおわびをした。金大中(キム・デジュン)-小渕宣言では「日本は植民地支配により多大の損害と苦痛を与えた…痛切な反省と心からのおわびをした」と明示した。植民地支配の不法性を認めなかったが、不当だったという点は認めた。日本の良心と知性の力だ。
尹大統領は傷ついた国民感情と衝突しながらも、両国関係のために勇気ある決断をした。今は日本が応える番だ。尹錫悦解決策は文喜相(ムン・ヒサン)案と似ているが、国会の立法過程を踏まず、訴訟の対象となる。被害者の不服訴訟がすでに始まった。裁判所の判決一つで崩れる可能性がある。尹大統領は被害者を説得してなだめなければいけない。面前で非難される覚悟も必要だ。難題に直面した苦悩を国民に率直に打ち明けるのがよい。世論が反転するはずだ。
韓日は文明史的な対話を始めることが求められる。前世紀に欧州は2度の世界大戦で衝突したが、和解して経済・安全保障共同体を作った。両国も和解と共存のアジア時代を開かなければいけない。
李夏慶(イ・ハギョン)/論説委員
ところが核心の徴用問題に対する岸田首相の直接の謝罪はなかった。被告企業も賠償には参加できないという立場だ。日本では「完勝」というが、韓国では「屈辱的な交渉」という。韓国大統領は地雷畑のまん中に立っている。
日本は韓国人がなぜ憤怒するのかを知っているのだろうか。韓国はカイロ宣言にある通り「奴隷状態」で36年を過ごした。それで敗戦国の日本を相手にした連合国講和会議の正式メンバーとして参加しようとした。臨時政府が第2次世界大戦以前から日本と戦争状態にあり、中国に日本と戦った韓国人師団があり、上海臨時政府が宣戦布告した事実を米国に伝えた。至誠天に通ず。張勉(チャン・ミョン)駐米大使は1951年1月26日、米国務長官顧問ダレスから「韓国の参加を支持する」という返答を受けた。しかし英国と日本の反対で参加48カ国から除外された。不当で悔しいことだった。
日本は1951年3月27日に講和会議の草案を受けると、緻密に準備して4月4日に米国に意見書を伝えた。戦争中の韓国では文書が実務者の机の引き出しに眠っていた。法務部の洪ジン基(ホン・ジンギ)法務局長は4月7日、日本の新聞で韓日関係条項が抜けた草案を確認した。マッカーサー最高司令官だけを信じて消極的だった李承晩(イ・スンマン)大統領を必死に動かした。参加意思と帰属財産処理問題に対する立場を表した意見書が5月初めに伝えられたが、日本より1カ月遅れた。残念なことだ。
1951年9月にサンフランシスコで調印された講和条約は、韓国を台湾と共に「日本の支配から抜け出した地域」に分類した。過去の植民地ということだ。植民地支配の不法性が認められ、謝罪と法的賠償を受けようとしていた期待は水の泡となった。さらにあきれたのは、韓国が日本の一部だったため朝鮮人の強制動員が「合法」になってしまった事実だ。深刻な傷と侮辱だった。実際、米国は日本と戦争中だった1942年から国務省極東班を運営し、敗戦国の日本を国際社会に復帰させる「寛大な平和(soft peace)」を準備していた。日本に負担となる韓国の要求を聞き入れる余地は最初からなかったはずだ。
サンフランシスコ条約調印1カ月後の1951年10月、両国は韓日協定締結のための交渉に入った。初期に日本は自国民50万人が韓国に置いて行った財産に関する権利、逆請求権を提起した。朝鮮内の日本の財産は85%だった。日本側の久保田全権代表が「植民地時代に有益なことをしただけに日本にも請求権がある」と述べると、韓国側の洪ジン基代表は「伝統の国際法に植民地から解放された国の権利が追加されるべきだ」という「解放の論理」で反論した。日本は久保田の妄言を取り消し、逆請求権の主張も撤回した。
13年8カ月後の1965年6月22日に交渉は妥結した。日本は韓国に無償で3億ドル、有償で2億ドルを援助することにした。この資金は韓国経済の発展に大きく寄与した。しかし植民地支配に対しては「すでに無効」と整理した。韓国は「最初から無効」と解釈した。日本は「今は無効だが、当時は有効で合法的だった」と国会に報告した。植民地支配に対する反省と省察はなく、韓国人には傷がもう一つ追加された。それだけに「植民地支配は不法であり、日本は徴用被害者に賠償すべき」という2018年の大法院(最高裁)判決は、日本にとって「65年体制」を揺るがすショックだったのだ。日本が徴用問題を避ける理由だ。
にもかかわらず「65年体制」は時間が経過しながら進化した。日本は50回ほどおわびをした。金大中(キム・デジュン)-小渕宣言では「日本は植民地支配により多大の損害と苦痛を与えた…痛切な反省と心からのおわびをした」と明示した。植民地支配の不法性を認めなかったが、不当だったという点は認めた。日本の良心と知性の力だ。
尹大統領は傷ついた国民感情と衝突しながらも、両国関係のために勇気ある決断をした。今は日本が応える番だ。尹錫悦解決策は文喜相(ムン・ヒサン)案と似ているが、国会の立法過程を踏まず、訴訟の対象となる。被害者の不服訴訟がすでに始まった。裁判所の判決一つで崩れる可能性がある。尹大統領は被害者を説得してなだめなければいけない。面前で非難される覚悟も必要だ。難題に直面した苦悩を国民に率直に打ち明けるのがよい。世論が反転するはずだ。
韓日は文明史的な対話を始めることが求められる。前世紀に欧州は2度の世界大戦で衝突したが、和解して経済・安全保障共同体を作った。両国も和解と共存のアジア時代を開かなければいけない。
李夏慶(イ・ハギョン)/論説委員
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