1910年1月20日に発行された日本監獄協会雑誌の表紙。[写真 キム・ウォルベ]
今回の資料には興味深い部分がいくつかある。当時の公判準備書類が約76センチに達し、安家の財産が年30俵ほどの収入だったと出ている。また、1909年3月安義士が断指同盟を結び、切った左薬指は同年秋まで残っていたと記述した。安定根(アン・ジョングン)と安恭根(アン・コングン)の2人の弟が刑務所に面会に来た事実と兄の安義士に会わなかった彼らの反応も明記されている。
安義士の義挙について聞いた母親の趙マリアの心情も描写されている。趙マリアは「(安義士が)どうも子供の時からチト大膽(だいたん)過ぎましたので恐らく畳の上で死ねぬ奴と思ふて居ました」と話したという。日本刑務官は「成程(なるほど)此母にして此子ありかねと少し語弊はあるが感嘆した人もある」と記録した。
キム教授は「今回の資料を通じて、当時日本でも安義士の収監状態に対する関心が高く、また安義士の処遇に対して非常に苦心したという事実を知ることができる」と話した。続いて「『安應七の歴史』『東洋平和論』の原本はまだ見つかっていない。伊藤を処断した拳銃もどこにあるのか分からない」としながら「安義士がロシアから日本総領事館に引き渡された当時、『物品引継目録』に関連物品が16種類あるが安義士の遺骨埋葬地に関する記録はまだ見つかっていない」と説明した。
安重根記念館のイ・ジュハ学芸部長は「安義士の刑務所生活は安義士の自叙伝と日本外務省・検察文書を通じて多くの部分明らかになったが、約110年ぶりに見つかった今回の資料は安義士を近くで見ていた刑務官の記録という点で意味が大きい」とし「下位職公務員である刑務官の情報誌でも安義士のことが取り上げられるほど当時安義士は日本人の間でも大きな関心を集めていたという事実を改めて確認することができる。安義士をより立体的に把握することができる」と評価した。
妻子の写真を見せられても動揺せず…日本刑務官が驚いた安重根の獄中生活(1)
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