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【コラム】限界…親日清算より「独立」に目を向ける時=韓国(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
ヘビを保護して守るヘビの皮はヘビの限界だ。より大きくなるためには皮を脱がなければならない。皮を脱ぐことができなければ成長が止まるだけでなく死んでしまう。ヘビにとって皮はしばらくは保護膜だったが、ある瞬間には限界に達して破滅の膜となる。すべての存在の生存は結局、限界との戦いだ。限界を破って進めば生存が持続し、限界に閉じ込められれば破滅する。国や人も変わらない。成長するためにはまず限界を認識し、その限界を乗り越えることを自身の使命として奮闘しなければいけない。

限界は実際、考えの限界だ。考える人は質問し、考えがない人は返事ばかりする。「返事」が極端に退化した形態が「衛正斥邪(=正学を衛り邪学を斥ける)」だ。心は老いず、考えは老いる。返事ばかりして考えが老いれば「衛正斥邪」以外には何もできない。日常でも「コンデ」は古く老いた考えに陥って「衛正斥邪」の限界の中にいる人をいう。大韓民国はいま限界に閉じ込められ、朝鮮末の「衛正斥邪」をまた生きている。

いったいどれほどの状況にまできているのか。相手が隙さえ見せれば、その隙が大きくても小さくても、それを機に相手の存在自体を消滅させるとして「衛正斥邪」の剣を振りかざす。エリザベス女王の名前のスペリングを「z」でなく「s」と誤って書いたことも、立場によって国家の興亡を左右するほどの大きな問題に化ける。しかしそれを非難する側は「一糸不乱」を「一糸紛乱」と書いたり、首脳会談のために訪れた相手国の芳名録に「大韓米国」という意味になる発音に書き間違えたりする。些細な例を挙げたが、このようなケースが大韓民国のほとんどすべての領域に表れている。


ここで誰の間違いかを問いただすほど自分の水準を低くめたくはない。全体的に「これが国か」と批判をしながら政権を握った人たちが「これが国か」という声を聞く状況で、役割を入れ替えながら堂々巡りしていることを知ろうと訴えたいだけだ。限界に閉じ込められて「黄允吉(ファン・ユンギル)」と「金誠一(キム・ソンイル)」をまた生きていることを分かろうということだ。我々は考えの限界に閉じ込められている。限界を限界と認識するのも容易なことではない。それもすべて能力だ。

限界を限界と認識するほど考えの器が大きくなければいけない。視線のレベルが人生のレベルだ。アヘン戦争で東アジアは西洋の科学文明の前で対応手段がなかった。中国と日本はなぜやられたのかを自問し、敗北を抱かせた西洋から学ぶことにまず全力を傾けた。中国の「向西方学習」や日本の「脱亜入欧」というスローガンはすべて自身の限界を自身に質問した後に得た自強の方策だった。考える能力があったからだ。我々はそうではなかった。その結果として自身の限界を突破しようという知的な態度を育てられず、復讐を夢見ることもできず、ただ非難ばかりして人のせいにする盲目的な「衛正斥邪」に陥った。


【コラム】限界…親日清算より「独立」に目を向ける時=韓国(2)

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