--他国はどうだったのか。
「日本が1972年に修交する時、当時の田中角栄首相は外相を歴任した大物政治家や椎名悦三郎を特使として台湾に送った。当時、田中首相は外務省が書いた親書草案を特に日本の漢学の大家に要請して格調のある漢文体にした。米国は断交の半月前に通知し、ウォーレン・クリストファー国務次官を送り、断交後の関係設定に関する交渉を始めた。クリストファー次官はデモ隊から卵を投げられたが、やるべきことを避けなかった。韓国より2年先にサウジアラビアが中国と修交したが、台湾と格別の関係でなくても断交前に国王が閣僚級の特使を送って親書で了解を求めた」
--中国は北朝鮮にどう通知したのか。
「修交40日前の7月15日、銭其チェン外相が北朝鮮を訪問し、ヘリコプターに乗って妙香山(ミョヒャンサン)にいた金日成(キム・イルソン)主席に江沢民主席の親書を伝えて修交を通知した。韓国はその事実さえも知らなかった。7月末に協議のため北京を訪れた外務次官が中国側に『北朝鮮には通知したのか』と尋ねたところ答えず、『韓国側こそ台湾問題をうまく処理すべきだ』と話した。当時、平壌(ピョンヤン)を訪問した張庭延大使が後ほど書いた回顧録に、金日成主席に修交計画を通知した事実を明らかにしながら『韓国は台湾から忘恩負義だと非難された』と記述した。これは何を意味するか。韓国は中国を意識して台湾を格下げして通知も遅らせたのかもしれないが、中国さえもそのような行為を良いものと考えなかった。相手を尊重する時、我々の国格も上がる」
韓国に対するその後の逆風は激しかった。台湾は直ちに韓国の直航便就航を禁止する「断航」など制裁措置を取った。復元のための航空交渉が進行される期間中、韓国の外交官が帰途に刃物で刺されて重傷を負う事件も発生した。断交直後に台湾に行った使節団一行は空港で貴賓室の使用を拒否され、廊下で到着声明を発表しなければならず、予定された夕食会が当日にキャンセルされた。航空便の就航禁止が解決するまでには12年の歳月がかかった。目に見えない損失はさらに大きかったかもしれない。当時、韓国外交部の幹部は台湾訪問を終え、韓国を訪問したマーガレット・サッチャー元英首相から「外交にもロイヤルティ(義理)がある」という厳しい指摘を受けたと、後日に回顧録に書いた。
--台湾で断交を迎えた後、駐中大使館と外交部本部で中国担当課長として中国業務を継続した。韓中修交を総合的に評価してほしい。
「国際社会で韓国が半分の外交から全方向の外交に出て行く北方外交の頂点になったと考える。一つの中国の原則を受け入れて台湾と断交をしたのも現実的な選択だったと考える。また、中国との修交を選んだのが過去30年間の韓国の経済的発展に大きく寄与をしたことも間違いない。ところが実現できなかったことがある。我々が中国に期待した戦略的目標のうち重要なのが、韓半島統一の基盤を築く過程で中国の建設的な役割を引き出すというものだった。当時、盧泰愚(ノ・テウ)大統領は閣僚を呼んで会議する時『もう我々は統一過程に進入し、今世紀末までには国家連合を達成すると確信する』と話した。30年が過ぎた今、冷静に振り返る必要がある。朴振長官が先週、中国を訪問して王毅外相に北朝鮮が挑発ではなく対話と外交を選択するように中国側が建設的役割をするよう要請したというが、いま我々が自ら考える中国の建設的な役割とは何か、果たして30年間に中国がその役割をどのようにしてきたのかを一度くらい評価してみる時期になった」
【コラム】「相手を尊重する時、国格が上がる」=韓国(1)
「日本が1972年に修交する時、当時の田中角栄首相は外相を歴任した大物政治家や椎名悦三郎を特使として台湾に送った。当時、田中首相は外務省が書いた親書草案を特に日本の漢学の大家に要請して格調のある漢文体にした。米国は断交の半月前に通知し、ウォーレン・クリストファー国務次官を送り、断交後の関係設定に関する交渉を始めた。クリストファー次官はデモ隊から卵を投げられたが、やるべきことを避けなかった。韓国より2年先にサウジアラビアが中国と修交したが、台湾と格別の関係でなくても断交前に国王が閣僚級の特使を送って親書で了解を求めた」
--中国は北朝鮮にどう通知したのか。
「修交40日前の7月15日、銭其チェン外相が北朝鮮を訪問し、ヘリコプターに乗って妙香山(ミョヒャンサン)にいた金日成(キム・イルソン)主席に江沢民主席の親書を伝えて修交を通知した。韓国はその事実さえも知らなかった。7月末に協議のため北京を訪れた外務次官が中国側に『北朝鮮には通知したのか』と尋ねたところ答えず、『韓国側こそ台湾問題をうまく処理すべきだ』と話した。当時、平壌(ピョンヤン)を訪問した張庭延大使が後ほど書いた回顧録に、金日成主席に修交計画を通知した事実を明らかにしながら『韓国は台湾から忘恩負義だと非難された』と記述した。これは何を意味するか。韓国は中国を意識して台湾を格下げして通知も遅らせたのかもしれないが、中国さえもそのような行為を良いものと考えなかった。相手を尊重する時、我々の国格も上がる」
韓国に対するその後の逆風は激しかった。台湾は直ちに韓国の直航便就航を禁止する「断航」など制裁措置を取った。復元のための航空交渉が進行される期間中、韓国の外交官が帰途に刃物で刺されて重傷を負う事件も発生した。断交直後に台湾に行った使節団一行は空港で貴賓室の使用を拒否され、廊下で到着声明を発表しなければならず、予定された夕食会が当日にキャンセルされた。航空便の就航禁止が解決するまでには12年の歳月がかかった。目に見えない損失はさらに大きかったかもしれない。当時、韓国外交部の幹部は台湾訪問を終え、韓国を訪問したマーガレット・サッチャー元英首相から「外交にもロイヤルティ(義理)がある」という厳しい指摘を受けたと、後日に回顧録に書いた。
--台湾で断交を迎えた後、駐中大使館と外交部本部で中国担当課長として中国業務を継続した。韓中修交を総合的に評価してほしい。
「国際社会で韓国が半分の外交から全方向の外交に出て行く北方外交の頂点になったと考える。一つの中国の原則を受け入れて台湾と断交をしたのも現実的な選択だったと考える。また、中国との修交を選んだのが過去30年間の韓国の経済的発展に大きく寄与をしたことも間違いない。ところが実現できなかったことがある。我々が中国に期待した戦略的目標のうち重要なのが、韓半島統一の基盤を築く過程で中国の建設的な役割を引き出すというものだった。当時、盧泰愚(ノ・テウ)大統領は閣僚を呼んで会議する時『もう我々は統一過程に進入し、今世紀末までには国家連合を達成すると確信する』と話した。30年が過ぎた今、冷静に振り返る必要がある。朴振長官が先週、中国を訪問して王毅外相に北朝鮮が挑発ではなく対話と外交を選択するように中国側が建設的役割をするよう要請したというが、いま我々が自ら考える中国の建設的な役割とは何か、果たして30年間に中国がその役割をどのようにしてきたのかを一度くらい評価してみる時期になった」
【コラム】「相手を尊重する時、国格が上がる」=韓国(1)
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