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【コラム】大韓民国が志向する正義とはどんなものか(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

イラスト=キム・ジユン記者

解放の直後だから、フランスとイタリアに国際共産主義思想が膨張した時だった。フランスのある哲学者が、共産主義者と米国の自由主義思想を比較しながら残した話を読んだ。ある人がキャデラックの自動車でパリの街を走れば、フランスの若者は「あんな生意気な奴がいるのか。すぐに捕まえて処罰し、自動車を没収すべきだ」という。

ところが米ニューヨークの街をある人がキャデラックに乗って通過すれば、黒人の若者も「かっこいい。自分も一度はあんな車に乗ってみたい」と羨んだという。共産主義者は平等のための手段を正義だと考えるが、米国人はより多くの自由を誰もが享受できるため正義の価値は尊いという考えを持っているということだ。

◆J.F・ケネディとR・ケネディ兄弟


もう一つの例、米国のJ.F・ケネディが40代で最年少の大統領になった。内閣を構成する時、30代の弟のR・ケネディを司法長官に任命しながら「あまり喜びすぎるな」と話したと聞いた。ところがどの米国人や野党国会議員もその任命を正しくない、公平でないという話をしない。ケネディ兄弟の人柄と社会的公正性を認めていたからだ。むしろ弟だから兄に苦言できると考える人が多かった。兄弟であるが、公益のためには個人的な利害関係がないほど常識がある兄弟として信じたのだ。

ハーバード大学で新入生を選抜する時にあったことだ。米国の全域でハーバード大の卒業生が仕事をしているが、アラスカ州にはハーバード大出身者がいなかったようだ。それでアラスカ州出身の学生を選抜しようという世論が形成された。その結果はよく知らない。ハーバード大が自分たちの卒業生を考慮してアラスカ出身の学生を入学させたからといって、米国人は不公正や不正を調査すべきだという世論を起こさない。社会の公益性のための選択は不正や不平等でないという常識のためだ。

米国の大学が自分たちの大学出身者を教授として採用するのを避けるのは、大学の目的が国家のための人材を社会に進出させることにあるからだ。同窓生が大学を運営することになれば、同質の社会として固まって発展しないと考える。その根底には正義を公益のための方法として認める社会秩序があるからだ。閉鎖的な正義観念よりも社会公益のための開放された自由を尊重する社会秩序の多様性だ。

私自身が大学にいた時に経験した悩みがある。卒業生が就職を希望して推薦書を求めてくる。他の大学の卒業生もいるから良い内容を書いてほしいという期待を抱いて来たのだ。その時、私はその弟子の長所を強調するが、短所は書かない。私のために落ちてしまってはいけないと考える。私も自分の考えの中に過ちがあるとは認めない。その学生が信頼できない場合には、私よりも学科長や学長の公式的な推薦書を受けるのがよいと責任回避のために断ることもある。そのような習慣が私自身の人格を自らが毀損するという考えはしない。

ところが米国の教授は所見書や推薦書を本人や相手機関から要請されれば、長所・短所を正確に記録する。仮に嘘や誇張、事実と異なる推薦書を書いたとすれば、作成した教授の人格と信頼が落ち、後には推薦する信義と資格を失う。教授としての人柄を自ら毀損することは自身と社会のための正義にならないと考える。

最近、韓国の大学社会が批判を受ける原因を反省することがある。教授自身が自身と時には弟子、さらには息子・娘の将来まで不幸にさせる失敗を犯したりする。誰が社会の正義を病ませるのか。教育界に身を置く私自身を恥ずかしくさせ、反省させる。私が自分を信じることができなければ誰が私を信じるだろうか。

この数年間、国家統治権者を含む我々の政界の正義観念はどうだったのか。まだ前途が遠いという自責感を振り払えない。その一方で正しい国政を先導していくという政治指導者が大部分だ。私と私たちがすることはすべてが正義であり、相手や他人がすることはいつも不義だという考え方と価値観を持つ指導者が多い。そのような考え方を間違っていると考えない指導者が代を継ぐ後進国家が我々の周辺にあるだけでなく、我々の後代にも蔓延すればどうなるのか。


【コラム】大韓民国が志向する正義とはどんなものか(2)

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