「この季節にあそこになぜ行くのですか。最近はほとんど人がいないのに…」
今月9日午後、新潟港旅客船ターミナルで佐渡島行きの船を一緒に待っていた60代女性が「佐渡金山に行こうとしている」記者に話しかけてきた。雪が今にも降ってきそうな重々しい空の下、佐渡島に30年以上暮らしてきたというこの女性は「雪道に気をつけて」と心配そうな表情を浮かべた。
日本政府が1日に新潟県佐渡島にある佐渡金山を国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産に公式推薦した。そのため佐渡金山が連日話題にのぼったが、日本人で実際に金山を訪問してその様子を見ようとする人は多くない。日本本州の北側、全国どこからも移動するのが容易ではない距離のためだ。東京駅から新幹線に乗って2時間、新潟港から快速船に乗って70分で佐渡島両津港に到着する。ここからバスに乗り換えて揺られること70分余り、島を横切りくねくねとした山道を上がってようやく佐渡金山に到着する。行き来するバスも多くなく、中間で乗り換えなければならない場合もよくある。
◆遺跡の入口には公式推薦を祝う横断幕
佐渡金山はもともと佐渡島にあった40カ所余りの鉱山を通称する言葉だったが、今回ユネスコに推薦されたのは島の西北にある相川・鶴子金銀山と西三川砂金山だ。このうち江戸時代(1603~1867年)世界最大規模の金生産地として有名だった相川金銀山には太平洋戦争期に朝鮮人労働者が大勢動員されて銅や鉄、亜鉛などの戦争物資を採掘した。
10日午前、相川金銀山遺跡に到着すると、観覧客は記者1人だけだった。入口には「祝!ユネスコへの国内推薦選定!」と書かれた大きな横断幕が掲げられていた。山の隅々を回って金鉱の足跡を見学するツアーコースもあるが、12月~3月は催行されない。この時期に観覧することができるのは江戸時代の金鉱の一部を再現した「宗太夫坑 江戸金山絵巻コース」と明治時代(1868年~1912年)以降に使用された坑道を見る「道遊坑 明治官営鉱山コース」だ。
まずに宗太夫坑に入ってみた。約500メートルの曲がりくねった地下坑道に、江戸時代に手作業で金を掘っていた労働者の様子をマネキンで再現している。ツルハシで地面を掘り、手で土を選り分け、これを水にくぐらせて金を採取する様子だ。薄暗い坑道の天井からは水がぽたぽたと落ち、マネキンが動く音だけが聞こえてくる。コースの中間で一組のカップルと出会った。「最近、ニュースによく出てくるので一度立ち寄ってみますが、ちょっと怖いですね」と短く話した。
明治以降に作られた道遊坑の遺跡はかなり長い。比較的広く整備された坑道が1.5キロメートルほど続く。地面には当時鉱物を積み出した鉄道の跡が残っていて、「(明治時代)欧米から導入された先進的鉱業技術で金は生産量が大幅に増加した」という案内音声が流れてきた。
現在観覧可能な佐渡金山の遺跡の大部分は明治時代以降のものだが、日本政府は「江戸時代の佐渡金山」に期間を限定してユネスコに推薦書を出した。戦争物資を生産する場所として使われた鉱山の「暗い歴史」を隠そうとする狙いだ。
【ナウ・イン・ジャパン】論争の佐渡金山、朝鮮人徴用の痕跡はたった2行だけ(2)
今月9日午後、新潟港旅客船ターミナルで佐渡島行きの船を一緒に待っていた60代女性が「佐渡金山に行こうとしている」記者に話しかけてきた。雪が今にも降ってきそうな重々しい空の下、佐渡島に30年以上暮らしてきたというこの女性は「雪道に気をつけて」と心配そうな表情を浮かべた。
日本政府が1日に新潟県佐渡島にある佐渡金山を国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産に公式推薦した。そのため佐渡金山が連日話題にのぼったが、日本人で実際に金山を訪問してその様子を見ようとする人は多くない。日本本州の北側、全国どこからも移動するのが容易ではない距離のためだ。東京駅から新幹線に乗って2時間、新潟港から快速船に乗って70分で佐渡島両津港に到着する。ここからバスに乗り換えて揺られること70分余り、島を横切りくねくねとした山道を上がってようやく佐渡金山に到着する。行き来するバスも多くなく、中間で乗り換えなければならない場合もよくある。
◆遺跡の入口には公式推薦を祝う横断幕
佐渡金山はもともと佐渡島にあった40カ所余りの鉱山を通称する言葉だったが、今回ユネスコに推薦されたのは島の西北にある相川・鶴子金銀山と西三川砂金山だ。このうち江戸時代(1603~1867年)世界最大規模の金生産地として有名だった相川金銀山には太平洋戦争期に朝鮮人労働者が大勢動員されて銅や鉄、亜鉛などの戦争物資を採掘した。
10日午前、相川金銀山遺跡に到着すると、観覧客は記者1人だけだった。入口には「祝!ユネスコへの国内推薦選定!」と書かれた大きな横断幕が掲げられていた。山の隅々を回って金鉱の足跡を見学するツアーコースもあるが、12月~3月は催行されない。この時期に観覧することができるのは江戸時代の金鉱の一部を再現した「宗太夫坑 江戸金山絵巻コース」と明治時代(1868年~1912年)以降に使用された坑道を見る「道遊坑 明治官営鉱山コース」だ。
まずに宗太夫坑に入ってみた。約500メートルの曲がりくねった地下坑道に、江戸時代に手作業で金を掘っていた労働者の様子をマネキンで再現している。ツルハシで地面を掘り、手で土を選り分け、これを水にくぐらせて金を採取する様子だ。薄暗い坑道の天井からは水がぽたぽたと落ち、マネキンが動く音だけが聞こえてくる。コースの中間で一組のカップルと出会った。「最近、ニュースによく出てくるので一度立ち寄ってみますが、ちょっと怖いですね」と短く話した。
明治以降に作られた道遊坑の遺跡はかなり長い。比較的広く整備された坑道が1.5キロメートルほど続く。地面には当時鉱物を積み出した鉄道の跡が残っていて、「(明治時代)欧米から導入された先進的鉱業技術で金は生産量が大幅に増加した」という案内音声が流れてきた。
現在観覧可能な佐渡金山の遺跡の大部分は明治時代以降のものだが、日本政府は「江戸時代の佐渡金山」に期間を限定してユネスコに推薦書を出した。戦争物資を生産する場所として使われた鉱山の「暗い歴史」を隠そうとする狙いだ。
【ナウ・イン・ジャパン】論争の佐渡金山、朝鮮人徴用の痕跡はたった2行だけ(2)
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