韓国の歴史は世界史的な流れと影響を及ぼし合って発展してきた。特に帝国主義時代以降、すべての一国史は世界史の流れに直接・間接的な影響を受けてきた。しかし韓半島(朝鮮半島)での流れが世界史とは違う方向に進む姿を見せる時期も少なくなかった。
1947年以降、世界は冷戦的構造が本格化した。しかし韓半島では熱戦が起きた。1960年代後半は5月革命と反戦運動の時代だった。しかし韓半島でベトナム戦争に対する省察は全くなく、南北間の安保危機は深まった。
1990年前後に世界は脱冷戦時代を経験した。しかし韓半島では南北間の緊張がさらに高まった。1993年に北核危機が始まり、韓国社会では一歩遅れてマッカーシズムが始まった。親北・従北のレッテルが貼られ、選挙のたびに理念論争が再現された。
◆ベトナム戦争の敗北で混乱に陥った米国
世界史と韓国社会の流れが異なるとみられた代表的な時期が1970年代だ。1970年代はデタント(緊張緩和)の時代だった。米国は中国の扉を開き、ソ連とは核軍縮に合意した。東西ドイツが互いに政府として認めながら本格的な対話を始め、1975年に欧州と北米の国家がヘルシンキ宣言で国力とは関係なくすべての国の主権を尊重すると宣言した。
半面、韓国政府は1972年に維新宣言を通じて、かろうじて維持してきた民主主義に死亡宣告をした。北朝鮮は社会主義憲法改正で一人独裁体制を強化した。ニクソンと毛沢東の茅台酒の乾杯が色あせるように、南北間の緊張は結局、1976年の板門店(パンムンジョム)斧事件(ポプラ事件)に帰結した。一触即発の状況だった。なぜこのようにそれぞれ異なる現象が生じたのだろうか。
問題の始まりはベトナム戦争だった。米国がベトナムで使用した軍事費は2000億ドル以上だった。韓国戦争(朝鮮戦争)の3倍、第2次世界大戦の4倍にのぼる金額だ。ニクソンが大統領になった当時、米国政府の財政はほとんど破綻状態だった。議会では米国が援助した韓国とタイ、そしてフィリピンの軍事費適正使用を調査するためサイミントン委員会を組織した。
ニクソン政権は極端な措置を取るしかなかった。1971年に米ドルだけを基軸通貨として世界経済を牽引していたブレトンウッズ体制の中断を宣言した。米国に入ってくる輸入商品に対して関税を賦課した。自国の企業を支援するために税制優遇措置を取った。あたかもトランプ政権の政策の1970年代版といえるほど自由貿易主義に逆行する政策だった。
◆米国のデタントを安保危機と認識
アジアの状況は米国と違った。むしろベトナム戦争の特需でほとんどが高い成長率となった。ベトナム派兵があった1965年から73年まで韓国の成長率は平均9%を上回り、米国の承認下で軍需産業を始めることができた。1965年から1970年までタイは9.4%、フィリピンは5.1%の高い成長率となった。
韓国とフィリピン、タイは当時、アジアからベトナムに戦闘部隊を派兵した国だった。ベトナム戦争の特需で各国政府の大衆的支持度が上昇する中、3カ国では独裁政権が強まる現象が表れた。独裁政権の強化は米国のデタントによる安保危機が名分になった。
米国は経済危機を克服するために海外駐留米軍の縮小と撤収を推進したが、これは共産主義と対立していたアジア国家の指導者に危機として近づいた。さらにベトナムからの米軍撤収は自国内の米軍基地縮小、そして戦争特需の中断につながり、独裁者の大衆的人気に大きな打撃になるしかなかった。
◆独裁体制を強化した韓国・フィリピン・タイ
連鎖反応が始まった。タイは1971年に非常事態を宣言して軍が親衛クーデターを断行し、米中接近以降は中国とソ連に手を差し出した民間政治家が追放された。1972年9月にフィリピンではマルコスが戒厳令を宣言した。マルコスは新社会運動を展開した。そして韓国で同年10月、維新体制が宣言された。
アジアの同盟国で民主主義に逆行する政治的な動きが表れたにもかかわらず、米国は動かなかった。1973年1月18日に米国務省から出た文書では、米国の対応について次のように勧告している。
「米国政府はフィリピンと韓国での民主主義の過誤について批判するのを控えるべきだろう。マルコスや朴大統領のような強力な指導者の永久執権問題はフィリピンや韓国の国民が決める問題だ」。
米国にとって同盟国の民主主義体制は対外政策において非常に重要だ。ホワイトハウスや国務省が独裁を非難する声明を発表したり、時には経済制裁や軍事的介入をしたりした。2003年にイラクで大量破壊兵器を発見できなかった時は「民主主義の拡大」を軍事介入の名分とし、現在の米中葛藤でも中国の人権問題が重要なイシューとして提起されている。
1947年以降、世界は冷戦的構造が本格化した。しかし韓半島では熱戦が起きた。1960年代後半は5月革命と反戦運動の時代だった。しかし韓半島でベトナム戦争に対する省察は全くなく、南北間の安保危機は深まった。
1990年前後に世界は脱冷戦時代を経験した。しかし韓半島では南北間の緊張がさらに高まった。1993年に北核危機が始まり、韓国社会では一歩遅れてマッカーシズムが始まった。親北・従北のレッテルが貼られ、選挙のたびに理念論争が再現された。
◆ベトナム戦争の敗北で混乱に陥った米国
世界史と韓国社会の流れが異なるとみられた代表的な時期が1970年代だ。1970年代はデタント(緊張緩和)の時代だった。米国は中国の扉を開き、ソ連とは核軍縮に合意した。東西ドイツが互いに政府として認めながら本格的な対話を始め、1975年に欧州と北米の国家がヘルシンキ宣言で国力とは関係なくすべての国の主権を尊重すると宣言した。
半面、韓国政府は1972年に維新宣言を通じて、かろうじて維持してきた民主主義に死亡宣告をした。北朝鮮は社会主義憲法改正で一人独裁体制を強化した。ニクソンと毛沢東の茅台酒の乾杯が色あせるように、南北間の緊張は結局、1976年の板門店(パンムンジョム)斧事件(ポプラ事件)に帰結した。一触即発の状況だった。なぜこのようにそれぞれ異なる現象が生じたのだろうか。
問題の始まりはベトナム戦争だった。米国がベトナムで使用した軍事費は2000億ドル以上だった。韓国戦争(朝鮮戦争)の3倍、第2次世界大戦の4倍にのぼる金額だ。ニクソンが大統領になった当時、米国政府の財政はほとんど破綻状態だった。議会では米国が援助した韓国とタイ、そしてフィリピンの軍事費適正使用を調査するためサイミントン委員会を組織した。
ニクソン政権は極端な措置を取るしかなかった。1971年に米ドルだけを基軸通貨として世界経済を牽引していたブレトンウッズ体制の中断を宣言した。米国に入ってくる輸入商品に対して関税を賦課した。自国の企業を支援するために税制優遇措置を取った。あたかもトランプ政権の政策の1970年代版といえるほど自由貿易主義に逆行する政策だった。
◆米国のデタントを安保危機と認識
アジアの状況は米国と違った。むしろベトナム戦争の特需でほとんどが高い成長率となった。ベトナム派兵があった1965年から73年まで韓国の成長率は平均9%を上回り、米国の承認下で軍需産業を始めることができた。1965年から1970年までタイは9.4%、フィリピンは5.1%の高い成長率となった。
韓国とフィリピン、タイは当時、アジアからベトナムに戦闘部隊を派兵した国だった。ベトナム戦争の特需で各国政府の大衆的支持度が上昇する中、3カ国では独裁政権が強まる現象が表れた。独裁政権の強化は米国のデタントによる安保危機が名分になった。
米国は経済危機を克服するために海外駐留米軍の縮小と撤収を推進したが、これは共産主義と対立していたアジア国家の指導者に危機として近づいた。さらにベトナムからの米軍撤収は自国内の米軍基地縮小、そして戦争特需の中断につながり、独裁者の大衆的人気に大きな打撃になるしかなかった。
◆独裁体制を強化した韓国・フィリピン・タイ
連鎖反応が始まった。タイは1971年に非常事態を宣言して軍が親衛クーデターを断行し、米中接近以降は中国とソ連に手を差し出した民間政治家が追放された。1972年9月にフィリピンではマルコスが戒厳令を宣言した。マルコスは新社会運動を展開した。そして韓国で同年10月、維新体制が宣言された。
アジアの同盟国で民主主義に逆行する政治的な動きが表れたにもかかわらず、米国は動かなかった。1973年1月18日に米国務省から出た文書では、米国の対応について次のように勧告している。
「米国政府はフィリピンと韓国での民主主義の過誤について批判するのを控えるべきだろう。マルコスや朴大統領のような強力な指導者の永久執権問題はフィリピンや韓国の国民が決める問題だ」。
米国にとって同盟国の民主主義体制は対外政策において非常に重要だ。ホワイトハウスや国務省が独裁を非難する声明を発表したり、時には経済制裁や軍事的介入をしたりした。2003年にイラクで大量破壊兵器を発見できなかった時は「民主主義の拡大」を軍事介入の名分とし、現在の米中葛藤でも中国の人権問題が重要なイシューとして提起されている。
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