「梅雨絲〔メウサ、本名シャルル・メーウス(Charles Meeus)〕神父にお願いいたします。あなたはわれわれの光復(解放)運動を誠心より助けてくださるだろうから、今回お立ち寄りになる先々で、われわれ韓人に会う度に、この義句(正しい文)の言葉をお伝え下さい。止国(亡国)の悲しみを免じようとするなら、自由と幸福を享受しようとするなら、精力・人材・物力を光復軍に捧げて、強弩末勢(力を持っている世の中の悪の一党)である仇敵の日本を打倒し、祖国の独立を完成させましょう。1941年3月16日重慶にて 金九(キム・グ)拝」
金九先生のこのような肉筆の文字が書き込まれた太極旗が宝物に指定される。韓国文化財庁は12日、「金九署名文太極旗」をはじめ、大韓帝国時代に高宗(コジョン)の外交顧問を務めていたオーウェン・ニッカーソン・デニーの太極旗と1919年に製作された「津寛寺(チングァンサ)太極旗」など太極旗3点を文化財に指定予告すると明らかにした。昨年の「マルモイ(=辞典)原稿」「朝鮮語大辞典原稿」に続く近現代遺産の宝物だ。
1941年大韓民国臨時政府国務委員会主席だった金九先生が自ら書いた「金九署名文太極旗」は独立活動家の島山(トサン)安昌浩(アン・チャンホ)先生の子孫が1985年「島山安昌浩遺品」として独立記念館に寄贈したことでその存在が世に知られるようになった。金九先生の肉筆により墨で134文字が書かれ、最後に日づけ・署名と共に「金九」と刻まれた四角の印鑑が押されている。金九先生は当時、中国重慶で活動していたベルギーの神父メーウスに「米国に行ってわれわれ同胞に会ったらこの言葉を見せてほしい」と伝達し、メーウス神父は米国に行って島山安昌浩先生の李恵錬(イ・ヘリョン)夫人にこの太極旗を届けた。
この太極旗は19~20世紀はじめに製作された太極旗のうち、製作時期が正確に伝えられている唯一の太極旗であるうえに、1942年6月大韓民国臨時政府が太極旗製作規定を統一する直前に作られたことから、太極旗変遷過程を後世に伝える重要な資料となっている。現在、天安(チョナン)独立記念館に所蔵されている。
オーウェン・ニッカーソン・デニー(1838~1900)が残した「デニー太極旗」は縦182.5センチ、横262センチの大型太極旗で、現存する太極旗で最古のものだ。土台となる生地に使われた粗織りの木綿に赤色と青色の太極模様、青色の四掛をミシンで縫いつけている。ミシンを使った点が当時西洋の国旗製作方式と似ていて、19世紀末に近代の文物が入ってきた朝鮮の情勢が影響を及ぼしていることを示している。
米国外交官デニーは中国駐在領事だった1886年に朝鮮政府の外交および内務担当顧問として赴任、4年間外交・法律・経済分野の政策樹立を補佐した。1888年「西欧国際法によると朝鮮は独立国であり、清の内政干渉は否定する」という主張が書かれた本『中国と韓国(China and Corea)』を著している。デニーは中国から疎まれて1891年1月に韓国を離れるが、この時「デニー太極旗」を米国で持っていく。1900年のデニーの死から約80年間、デニー一族が保管して1981年その子孫が韓国に寄贈した。国立中央博物館に所蔵中だ。「デニー太極旗」は寄贈当時も腐食など損傷がほとんどなく状態が良好だった。2008年登録文化財に指定され、2018年以降毎年三一節(独立運動記念日)・光復節(解放記念日)などに一般公開された。
国立中央博物館は今年も光復節を迎えて13~23日に常設展示室「大韓帝国室」で「デニー太極旗」を特別公開する。
2009年ソウル恩平区(ウンピョング)の津寛寺で見つかった「津寛寺太極旗」は三・一運動があった1919年に製作されたと推定されている。日章旗の上に太極と四掛が墨で上塗りされている。左側上部分は火に焼けて損傷しており、小さく空いた穴もあり、万歳運動の現場で使われた可能性が高い。「津寛寺太極旗」は1919年6月6日から12月25日まで発行された独立新聞・朝鮮独立新聞などの新聞類を包んだ形で見つかった。
文化財庁のパク・スヒ研究官は「仏教系独立運動を総括したと伝えられる津寛寺の僧侶の白初月(ペク・チョウォル)、あるいはその周辺の人が隠したものと推定される。寺院で初めて見つかった日帝強占期の太極旗で、寺が独立運動の根拠地の役割を果たした事実も知ることができる」と話した。
文化財庁は30日の予告期間中、文化財委員会の審議を経てこの太極旗3点を国家指定文化財(宝物)に指定する計画だ。
金九先生のこのような肉筆の文字が書き込まれた太極旗が宝物に指定される。韓国文化財庁は12日、「金九署名文太極旗」をはじめ、大韓帝国時代に高宗(コジョン)の外交顧問を務めていたオーウェン・ニッカーソン・デニーの太極旗と1919年に製作された「津寛寺(チングァンサ)太極旗」など太極旗3点を文化財に指定予告すると明らかにした。昨年の「マルモイ(=辞典)原稿」「朝鮮語大辞典原稿」に続く近現代遺産の宝物だ。
1941年大韓民国臨時政府国務委員会主席だった金九先生が自ら書いた「金九署名文太極旗」は独立活動家の島山(トサン)安昌浩(アン・チャンホ)先生の子孫が1985年「島山安昌浩遺品」として独立記念館に寄贈したことでその存在が世に知られるようになった。金九先生の肉筆により墨で134文字が書かれ、最後に日づけ・署名と共に「金九」と刻まれた四角の印鑑が押されている。金九先生は当時、中国重慶で活動していたベルギーの神父メーウスに「米国に行ってわれわれ同胞に会ったらこの言葉を見せてほしい」と伝達し、メーウス神父は米国に行って島山安昌浩先生の李恵錬(イ・ヘリョン)夫人にこの太極旗を届けた。
この太極旗は19~20世紀はじめに製作された太極旗のうち、製作時期が正確に伝えられている唯一の太極旗であるうえに、1942年6月大韓民国臨時政府が太極旗製作規定を統一する直前に作られたことから、太極旗変遷過程を後世に伝える重要な資料となっている。現在、天安(チョナン)独立記念館に所蔵されている。
オーウェン・ニッカーソン・デニー(1838~1900)が残した「デニー太極旗」は縦182.5センチ、横262センチの大型太極旗で、現存する太極旗で最古のものだ。土台となる生地に使われた粗織りの木綿に赤色と青色の太極模様、青色の四掛をミシンで縫いつけている。ミシンを使った点が当時西洋の国旗製作方式と似ていて、19世紀末に近代の文物が入ってきた朝鮮の情勢が影響を及ぼしていることを示している。
米国外交官デニーは中国駐在領事だった1886年に朝鮮政府の外交および内務担当顧問として赴任、4年間外交・法律・経済分野の政策樹立を補佐した。1888年「西欧国際法によると朝鮮は独立国であり、清の内政干渉は否定する」という主張が書かれた本『中国と韓国(China and Corea)』を著している。デニーは中国から疎まれて1891年1月に韓国を離れるが、この時「デニー太極旗」を米国で持っていく。1900年のデニーの死から約80年間、デニー一族が保管して1981年その子孫が韓国に寄贈した。国立中央博物館に所蔵中だ。「デニー太極旗」は寄贈当時も腐食など損傷がほとんどなく状態が良好だった。2008年登録文化財に指定され、2018年以降毎年三一節(独立運動記念日)・光復節(解放記念日)などに一般公開された。
国立中央博物館は今年も光復節を迎えて13~23日に常設展示室「大韓帝国室」で「デニー太極旗」を特別公開する。
2009年ソウル恩平区(ウンピョング)の津寛寺で見つかった「津寛寺太極旗」は三・一運動があった1919年に製作されたと推定されている。日章旗の上に太極と四掛が墨で上塗りされている。左側上部分は火に焼けて損傷しており、小さく空いた穴もあり、万歳運動の現場で使われた可能性が高い。「津寛寺太極旗」は1919年6月6日から12月25日まで発行された独立新聞・朝鮮独立新聞などの新聞類を包んだ形で見つかった。
文化財庁のパク・スヒ研究官は「仏教系独立運動を総括したと伝えられる津寛寺の僧侶の白初月(ペク・チョウォル)、あるいはその周辺の人が隠したものと推定される。寺院で初めて見つかった日帝強占期の太極旗で、寺が独立運動の根拠地の役割を果たした事実も知ることができる」と話した。
文化財庁は30日の予告期間中、文化財委員会の審議を経てこの太極旗3点を国家指定文化財(宝物)に指定する計画だ。
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