1575年の長篠の戦いを描いた屏風絵 『図説織田信長』(2002、東京発行)
日本軍の鳥銃に圧倒された壬辰倭乱当時から300年が過ぎた1894年、朝鮮はまた悲劇に襲われた。「輔国安民」と「斥倭洋」を掲げて蜂起した東学農民軍は、侵略者の日本軍が持つ優れた武器の前でどうすることもできなかった。1894年7月に日清戦争を起こした日本軍が景福宮(キョンボックン)を占領すると、農民軍はまた蜂起した。日本軍を追い出して国を救うという情熱と愛国心は非常に強かったが、農民軍が持つ武器は竹槍と鳥銃にすぎなかった。鳥銃の性能は壬辰倭乱当時からそれほど良くなっていなかった。一方、日本軍は英国製スナイドル銃と自国で製造した村田銃で武装していた。スナイドル銃は射程距離と命中率、そして殺傷力で以前とはレベルが違った。武器の性能に著しい差があったため、日本軍1人が農民軍200人を相手にしたという評価が出るほどだった。
農民軍は地理的な利点を生かしてゲリラ戦で日本軍に対抗しようとしたが、うまくいかなかった。公州(コンジュ)牛禁峙(ウグムチ)をはじめとする三南(サムナム)地方の各地で数万の農民軍が敗れた。実際、農民軍討伐に参加した日本軍が残した記録をみるとぞっとする。「農民軍が400メートル手前まで接近してから我々の部隊は狙撃したが、百発百中とは実に愉快だと感じた。敵は烏合の衆であり、怯えて前進してくる者は一人もいなかった」。情熱と愛国心も武器の性能の差にはどうにもならなかった。
【韓日中三国志】豊臣秀吉の鳥銃に圧倒された朝鮮、武器が弱ければ血の涙流す(1)