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【韓日中三国志】豊臣秀吉の鳥銃に圧倒された朝鮮、武器が弱ければ血の涙流す(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

織田信長

1543年(中宗38年)8月25日、九州南側の種子島にポルトガル人が乗った中国船が漂流し、日本に鳥銃(火縄銃)が伝わった。当時16歳だった種子島の領主、種子島時尭(1528-1579)はこの新しい武器に熱狂した。時尭はポルトガル人に高値を支払って鳥銃2丁を購入した。時尭は鉄匠に鳥銃を分解させ後、模倣して作るよう指示した。また家臣に火薬を作る方法を学ばせた。

1年ほど経つと、時尭は鳥銃数十丁を製作するのに成功し、これは薩摩(現在の鹿児島県)を経て大阪など日本各地に伝播した。戦国時代を迎えて新武器の需要が多かったうえ、刀の製造などで早くから蓄積されていた鍛造・冶金技術などを生かし、日本の鳥銃生産は急増した。

鳥銃は「森の中の鳥を撃って捕らえる銃」という意味だが、日本では鉄砲と呼んだ。当初から鳥銃は主に敵軍の将帥を狙撃したり威嚇するために使われ、1551年ごろからは本格的に実戦に活用された。1575年の長篠の戦いで、織田信長と徳川家康の連合軍は鳥銃手を活用し、騎馬隊と弓手が中心の武田勝頼の軍を大破した。鉄砲で武装した織田の軍に武田勝頼の軍は対抗できなかった。

◆銃筒など朝鮮軍の武器を圧倒した鳥銃

鳥銃が広まると日本の歴史が変わった。鳥銃が伝来する前に主に使用された刀剣・槍・弓矢などの武器は製作費が高くないため、経済力がない中小領主も調達することができた。しかし鳥銃と火薬は製作過程がはるかに複雑で時間と多くの費用がかかるため、経済力がある巨大領主が独占するしかなかった。巨大領主はより多くの鳥銃を確保して中小領主を制圧し、覇権を狙った。銀山開発と対外貿易を通じて莫大な財源を蓄積した織田信長や豊臣秀吉が覇者になれたのはこうした背景のためだ。

1587年に日本を統一した豊臣秀吉が明国征服を掲げ、鳥銃の銃口は韓半島(朝鮮半島)と大陸に向けられた。朝鮮も1586年(宣祖19年)に対馬を通じて鳥銃を入手したが、朝鮮の臣僚と武将は新しい武器にほとんど注目しなかった。日本と社会環境が異なり、長期にわたり平和を享受していた朝鮮では、鳥銃の使い道がなかったからだ。

壬辰倭乱(文禄の役)直前の1592年4月、名将・申リプ(1546-1592)は柳成龍(リュ・ソンリョン)から鳥銃への対策について質問を受けると、「鳥銃があったとしても撃つたびに命中するのか」と問い返した。そして同年4月27日、忠州(チュンジュ)弾琴台(タングムデ)で申リプ部下の朝鮮軍と小西行長の日本軍の戦いは「壬辰倭乱版の長篠の戦い」だった。朝鮮軍は惨敗し、申リプは戦死した。

鳥銃の優れた威力を目撃すると、壬辰倭乱以降、朝鮮では鳥銃を神器と呼んだりもした。当時、朝鮮にも銃筒と呼ばれる多様な火気を保有していたが、鳥銃に対抗するには力不足だった。例えば、勝字銃筒は照尺がないのに対し、鳥銃は照尺があり照準射撃が可能だった。また鳥銃は銃身が長く、射程距離と命中率で勝字銃筒を圧倒した。こうした背景から宣祖と臣僚は鳥銃を確保して射撃術を習得するために努力した。その過程で戦闘中の捕虜や投降した「降倭」に注目した。

陸上戦で連敗して朝鮮は義州(ウィジュ)まで後退したが、1593年1月に平壌(ピョンヤン)戦闘で明軍が勝利し、戦勢は逆転した。明軍が勝利できたのは火砲の威力のおかげだった。明軍はポルトガルから入った仏狼機(フランキー)砲の一種の大将軍砲をはじめ、滅虜砲・虎蹲砲など各種火砲を保有していた。

明軍はこれら火砲と火箭を撃って鳥銃を無力化させた後、攻城戦で平壌城を陥落させた。戦闘の場面を眺めた朝鮮の臣僚は「空が崩れ、地面がくぼむようで、煙と火花が数十里に広がった」と明軍の火砲の威力を描写した。

平壌戦闘後、朝鮮は明の火砲を導入して使用法を学ぼうと腐心した。また明軍の教官を招へいして陣法などを習得しようとした。ところが明軍の指揮部は陣法を伝授することは許したが、火砲を譲ったり製作方法を教えることは頑なに拒否した。譲るどころか、1593年10月ごろから自分たちが持ち込んだ火砲をすべて回収していた。朝鮮は矢に塗る毒の製造法も学ぼうとしたが、明軍の指揮部は結局これを教えなかった。このため朝鮮は明軍の将卒を買収したり、朝鮮に残留した明軍の逃亡兵を活用して火砲製造法などを習得しようとしたが、目立った成果はなかった。
【韓日中三国志】豊臣秀吉の鳥銃に圧倒された朝鮮、武器が弱ければ血の涙流す(2)

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