1980年5月、光州民主化運動当時、錦南路(クムナムノ)でデモに加わった学生たちを連行する戒厳軍[写真 韓国国家記録院]
青井捷夫記者(2017年死去)は朝日新聞大阪本社所属のカメラマンだった。1980年5月19日、彼は当時新聞のソウル支局長だった藤高明氏の連絡を受け、光州に到着して社会部記者である斎藤忠臣記者(2014年死去)と惨状を目撃したという。
新聞は、斎藤記者の回顧録を引用し、彼らが「5月20日、市内の目抜き通りで何十台ものタクシーやバスがヘッドライトをつけ、クラクションを鳴らしデモに加わる様子を目の当たりにした」として「軍隊はバスの1台に催涙弾を撃ち込み、むせびながら出てきた若者に兵士が飛びかかり、こん棒でめった打ちにした」と当時の状況を伝えた。
青井記者はその姿を建物の上で撮影したという。その後、彼らは軍隊の声明を放送した光州MBC(文化放送)から火の手が上がり、全焼する姿もカラーフィルムで記録していた。
新聞が紹介した写真は計274枚。その中で57枚はカラー写真だ。新聞は「当時、報道写真では珍しいカラー写真」と伝えた。韓国現代史研究所の梁羅允(ヤン・ラユン)研究委員も新聞に「写真1枚1枚が貴重だ。特に放送局が燃える場面のカラー写真はなかったのではないか」と評価した。
この写真は、すでに亡くなった記者の遺族からもらったものだと新聞は明らかにした。青井記者の長女である中塚真理さんは新聞に「自宅で遺品を整理していて見つけた」として「様々な形で役立ててほしい」と明らかにした。
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