韓国の国家代表出身サッカー選手、奇誠庸(キ・ソンヨン、32、FCソウル)と「某大学外来教授」から小学校時期に性的暴行を受けたと後輩AさんとBさんが主張しながら真実攻防が広がっている。2人は2月27日に中央日報の記者と会って具体的な被害事実を打ち明けた。2人は「20人余りが寝ている団体宿舎で他の部員もいる状況で被害を受けた」と明らかにした。2人は目撃者の存在の可能性に初めて言及した。だが、奇誠庸は2月28日の記者の電話取材に対して「完全な虚偽事実」と反論した。
◆「他の部員もいるところで受けた」
まずA・Bさんとの一問一答。
--性的暴行被害を主張している。
Aさん「小学校5年生だった2000年度1月から6月までの約6カ月間、少なくとも10回以上の類似の性行為を強要された。特に1月ごろ、Bとともに呼ばれた日は忘れることができない。20人余りが一緒に寝ているサッカー部の団体宿舎に彼ら(奇誠庸と外来教授)がロッカーに斜めに寄りかかって横になっていた。宿舎は部屋にベッドがなく、壁の一方にロッカーだけがある構造だ。宿舎に他の部員も数人いた。私はその日はしたくなくて理由をあげた。ちょうどクラブ関係者だった父が海外の現地訓練に行った日だったが、『父が乗った飛行機が墜落するんじゃないかと思って心配だ』と言って泣いていたら、他の先輩がじゃあ今日はやるなと言った。それで横に一人でいたBと目が合った」
Bさん「その日記憶が鮮明に思い出される理由だ。当時は『Aだけ1人で抜けた』と考えて裏切りを感じた。後でAとその日の話をした。お前だけ1人嘘をついて抜けたと非難すると、Aは『お前がしたその人(奇誠庸)は大スターになったじゃないか』と言って苦々しい冗談を言った」
--なぜ拒絶できなかったのか。
Aさん「私たちが初めから好きでやったと思うか。当然嫌だと言った。歯向かうことができず『やらなくちゃいけないですか?』と言っても通じなかった。運動部で暴力が日常化していた時代だった」
Bさん「私は家も裕福ではなく、自分のことを弱いと考えた。Aのように涙を流して家族を理由を上げるほどの背景もなく嘆いた。ああ、私はどんな方法を使っても抜けられないんだなと思った。当時私は小学生でとても子どもだった」
--被害者は2人だけなのか。なぜ対象になったのか。
Aさん「他にも被害者がまだいるのか分からないが、私たち2人はいわゆる『チンタ(いじめられっ子)』だった。同期からも叩かれるほど。Bはとても萎縮していた。親に言えなかったのは、1年で親と生活している時間よりも宿舎で過ごす時間のほうがはるかに多かった。当時、1週間に1回ずつ『書く時間』という、自分が受けた暴行事実を書く時間があったがとても書くことができなかった」
--被害者というあなたたち2人が中学生時代には逆に後輩を性的暴行したという暴露が出てきた。
Aさん「私たちも暴力加害者という事実は認める。被害者に再び謝罪申し上げる。訪ねて行って直接謝るだろう。当時の状況を説明するなら、2004年度にサッカーチームの同期10人余りが後輩を暴行して性的暴行したとし、後輩のうち誰かがクラブの掲示板に投稿した。当時の同期10人の加害事実がすべて全く同じではない。誰かは暴力だけを振るい、誰かは性的嫌がらせだけをし、誰かは何もしなかった。だが、10人が皆同じような名目で処罰を受けて懲戒を受けた。そのことで私は転校処分を受けて海外留学した。2004年事件はすべて事実で、もう一度心から謝罪する」
Bさん「私たちが行った暴力が受けた暴力よりも小さかったと主張するわけではない。私たちが加害者だからといって2000年に受けたことが消えるわけではないということを言いたい。どちらにせよ加害者はそれ相応な罰を受ければいい」
--2回目の暴露報道資料で「性的暴行の事実を立証する証拠を有している」と明らかにした。その証拠とは何か。
Aさん「証拠に関する部分はすべて弁護士に一任した。弁護士が判断することだ」
--奇誠庸側と接触したことがあるということだが、どのような言葉が行き来したか。
Bさん「私とも奇誠庸とも懇意にしている一人の後輩が、私に『電話してみたら』と言って奇誠庸の連絡先を送ってきた。約25分間、奇誠庸と電話で話をした。奇誠庸は加害事実を否定し、暴露が事実ではないという記事を出せと言った。私に『機会を与える』と言うので、私が『あなたが私たちに機会という単語を使ってはいけない』と言った。互いに話はずっと別々で、私は『では言うことはなにもない』と言った」
--24日、パク・ジフン弁護士を通じて1回目の暴露が出てきて、26日に2回目の暴露をした。その間、暴露を翻意しようとしたと承知しているが、なぜそうしたか。
Aさん「サッカー業界に私たちの身元がすべて広がった。2004年事件のことが暴かれ、世論から袋叩きを受け、私はこれからどうやって生きていったらいいのかと思った。『このようになったことは自分が非難を受けて抱え込んで行くから、会って謝罪だけしろ』と要求し、奇誠庸側は『誤報記事を出したら会う』と言った。その提案について悩んだ」
--奇誠庸のお金を狙って暴露したという疑惑もある。20年過ぎてなぜ今ごろになって暴露したのか。
Aさん「私は相手側にも『お金は必要ない、謝罪だけしろ』と一貫して要求してきた。控訴時効も過ぎ、20年前のことで訴訟をすることもできない。相手側が私たちを誣告罪や虚偽事実流布罪で告訴する危険だけがある。それでも最近、校内暴力に対する『#MeToo(ハッシュタグミートゥー)』流れが起こったので勇気を出した。相手はすべてを持った高い山のように感じられた。悩んで悩んだ末に弁護士に訪ねて行った」
Bさん「私たちは少なくとも加害事実を認めた。ところがなぜ相手側は認めないでいるのか。最後まで真実を明らかにするほかはない。当時の性的暴行は宿舎に他の選手たちもいた状況で行われた。目撃者やまた他の被害者もいるかもしれないと考える。勇気を持つ人が出てくればと思う」
「20人いる宿舎で奇誠庸に暴行を受けた」vs「それは可能か」(2)
◆「他の部員もいるところで受けた」
まずA・Bさんとの一問一答。
--性的暴行被害を主張している。
Aさん「小学校5年生だった2000年度1月から6月までの約6カ月間、少なくとも10回以上の類似の性行為を強要された。特に1月ごろ、Bとともに呼ばれた日は忘れることができない。20人余りが一緒に寝ているサッカー部の団体宿舎に彼ら(奇誠庸と外来教授)がロッカーに斜めに寄りかかって横になっていた。宿舎は部屋にベッドがなく、壁の一方にロッカーだけがある構造だ。宿舎に他の部員も数人いた。私はその日はしたくなくて理由をあげた。ちょうどクラブ関係者だった父が海外の現地訓練に行った日だったが、『父が乗った飛行機が墜落するんじゃないかと思って心配だ』と言って泣いていたら、他の先輩がじゃあ今日はやるなと言った。それで横に一人でいたBと目が合った」
Bさん「その日記憶が鮮明に思い出される理由だ。当時は『Aだけ1人で抜けた』と考えて裏切りを感じた。後でAとその日の話をした。お前だけ1人嘘をついて抜けたと非難すると、Aは『お前がしたその人(奇誠庸)は大スターになったじゃないか』と言って苦々しい冗談を言った」
--なぜ拒絶できなかったのか。
Aさん「私たちが初めから好きでやったと思うか。当然嫌だと言った。歯向かうことができず『やらなくちゃいけないですか?』と言っても通じなかった。運動部で暴力が日常化していた時代だった」
Bさん「私は家も裕福ではなく、自分のことを弱いと考えた。Aのように涙を流して家族を理由を上げるほどの背景もなく嘆いた。ああ、私はどんな方法を使っても抜けられないんだなと思った。当時私は小学生でとても子どもだった」
--被害者は2人だけなのか。なぜ対象になったのか。
Aさん「他にも被害者がまだいるのか分からないが、私たち2人はいわゆる『チンタ(いじめられっ子)』だった。同期からも叩かれるほど。Bはとても萎縮していた。親に言えなかったのは、1年で親と生活している時間よりも宿舎で過ごす時間のほうがはるかに多かった。当時、1週間に1回ずつ『書く時間』という、自分が受けた暴行事実を書く時間があったがとても書くことができなかった」
--被害者というあなたたち2人が中学生時代には逆に後輩を性的暴行したという暴露が出てきた。
Aさん「私たちも暴力加害者という事実は認める。被害者に再び謝罪申し上げる。訪ねて行って直接謝るだろう。当時の状況を説明するなら、2004年度にサッカーチームの同期10人余りが後輩を暴行して性的暴行したとし、後輩のうち誰かがクラブの掲示板に投稿した。当時の同期10人の加害事実がすべて全く同じではない。誰かは暴力だけを振るい、誰かは性的嫌がらせだけをし、誰かは何もしなかった。だが、10人が皆同じような名目で処罰を受けて懲戒を受けた。そのことで私は転校処分を受けて海外留学した。2004年事件はすべて事実で、もう一度心から謝罪する」
Bさん「私たちが行った暴力が受けた暴力よりも小さかったと主張するわけではない。私たちが加害者だからといって2000年に受けたことが消えるわけではないということを言いたい。どちらにせよ加害者はそれ相応な罰を受ければいい」
--2回目の暴露報道資料で「性的暴行の事実を立証する証拠を有している」と明らかにした。その証拠とは何か。
Aさん「証拠に関する部分はすべて弁護士に一任した。弁護士が判断することだ」
--奇誠庸側と接触したことがあるということだが、どのような言葉が行き来したか。
Bさん「私とも奇誠庸とも懇意にしている一人の後輩が、私に『電話してみたら』と言って奇誠庸の連絡先を送ってきた。約25分間、奇誠庸と電話で話をした。奇誠庸は加害事実を否定し、暴露が事実ではないという記事を出せと言った。私に『機会を与える』と言うので、私が『あなたが私たちに機会という単語を使ってはいけない』と言った。互いに話はずっと別々で、私は『では言うことはなにもない』と言った」
--24日、パク・ジフン弁護士を通じて1回目の暴露が出てきて、26日に2回目の暴露をした。その間、暴露を翻意しようとしたと承知しているが、なぜそうしたか。
Aさん「サッカー業界に私たちの身元がすべて広がった。2004年事件のことが暴かれ、世論から袋叩きを受け、私はこれからどうやって生きていったらいいのかと思った。『このようになったことは自分が非難を受けて抱え込んで行くから、会って謝罪だけしろ』と要求し、奇誠庸側は『誤報記事を出したら会う』と言った。その提案について悩んだ」
--奇誠庸のお金を狙って暴露したという疑惑もある。20年過ぎてなぜ今ごろになって暴露したのか。
Aさん「私は相手側にも『お金は必要ない、謝罪だけしろ』と一貫して要求してきた。控訴時効も過ぎ、20年前のことで訴訟をすることもできない。相手側が私たちを誣告罪や虚偽事実流布罪で告訴する危険だけがある。それでも最近、校内暴力に対する『#MeToo(ハッシュタグミートゥー)』流れが起こったので勇気を出した。相手はすべてを持った高い山のように感じられた。悩んで悩んだ末に弁護士に訪ねて行った」
Bさん「私たちは少なくとも加害事実を認めた。ところがなぜ相手側は認めないでいるのか。最後まで真実を明らかにするほかはない。当時の性的暴行は宿舎に他の選手たちもいた状況で行われた。目撃者やまた他の被害者もいるかもしれないと考える。勇気を持つ人が出てくればと思う」
「20人いる宿舎で奇誠庸に暴行を受けた」vs「それは可能か」(2)
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