1986年、日本の半導体業界は興奮を隠すことができなかった。NECが世界のメモリー半導体部門の絶対強者である米テキサス・インスツルメンツ(TI)を破りシェア1位を記録したからだ。東芝と日立までTIを抜いた。1987年の世界半導体上位10社のうち、NEC、東芝、日立が1~3位を占め、富士通が6位、三菱が9位と日本企業5社が名前を上げ市場を席巻した。
栄光の瞬間は短かった。1993年に再び米国にシェア1位を奪われ、1992年には新生サムスン電子にDRAM分野1位を明け渡した。1990年代の家電市場変化と2000年代のチキンゲームに対応できず日本企業は半導体市場から事実上姿を消した。現在売り上げ基準で世界10大半導体企業のうち日本企業は9位のキオクシア(旧東芝)が唯一だ。
米国政府の強力な牽制が日本の半導体産業急落の出発点だった。1986年に締結された日米半導体協定が象徴的事件だ。1980年代に米半導体産業協会(SIA)とインテル、マイクロンなどは日本の半導体企業の独走を阻止するためダンピング容疑で相次ぎ提訴した。これに対し日米政府が仲裁に乗り出し、日本の対米半導体輸入拡大、ダンピング販売禁止などの内容を盛り込んだ非対称協定を締結した。日本の半導体産業を思うままにできるカードを握った米国はその後日本側が協定履行を怠ると追い詰めて「スーパー301条」まで動員し日本の足を引っ張った。その上で米国は半導体共同開発機関(SEMATEC)、半導体研究協会(SRC)などを設立し自国の半導体競争力強化に出た。
日本に向けられた米国の攻勢が激しかった1990年代に入り世界の半導体市場は激変期を迎えた。家庭用パソコン普及が増える中でマイクロソフトのウィンドウズの新バージョンが出るたびにパソコン買い換え需要が発生した。この需要はほとんどがインテルを中心とした米国のシステム半導体企業が独占した。パソコン買い換え需要が増えると日本よりも価格が安い韓国製DRAMの販売が急増した。当時サムスン電子と現代半導体などが歩留まり中心の価格・生産性向上政策で日本をリードし始めた。米国の顔色をうかがった日本はシステム半導体市場の急成長と韓国のDRAM市場影響力拡大の中で筋道をつかめなかった。日本の不振の中で日米半導体協定も1996年に終結した。半導体覇権を取り戻した米国としてはあえて延長する必要はなかった。
こうした中、1990年代後半のDRAM供給過剰は日本の半導体企業に決定打となった。業績不振が続き日本企業がひとつふたつと歴史の中に消え始めた。DRAM市場から富士通が1999年に撤退したのに続き、NECと日立は事業部を分割してエルピーダメモリーとして統合し、東芝は2001年に撤退した。
◇垂直系列化のおかげで「素材・部品・装備」に競争力
日本の半導体企業はマージンが少ないDRAMを断念する代わりに米国のようにシステム半導体市場に参入し始めた。これを受け政府傘下機関である産業革新機構の主導で「2012年システム半導体生態系構築計画」を立てた。2003年に日立と三菱がシステム半導体部門を分離・統合して現在の自動車用半導体専門企業のルネサスを設立した。ルネサスを中心に、NECエレクトロニクス、富士通、パナソニックを合併させシステムLSI事業を統合する案を進めた。合わせて1990年に代台湾TSMCが普遍化したファブレス・ファウンドリーの水平分業モデルも導入することにした。
しかしすでに世界的にインテル、ザイリンクス、アルテラ、クアルコムなど米国のファブレス企業と台湾TSMCの強固な協業体系が備わった。特にシステム半導体基本技術を持つインテルやクアルコムなどと、ソフトウェア・サービス会社であるマイクロソフトとグーグル間の協業でIT分野の標準を掌握した。日本の半導体企業はこの生態系から排除された。
日本の半導体企業はオーナーシップ不在の中で政府に引きずられ、思い切った投資の好機も逃した。サムスン電子は2005~2007年にインテルよりも2000億円多い8210億円を設備に投資しDRAM分野のリーダーシップを固めた。同じ期間に東芝の投資額は3250億円、ソニーは1467億円にとどまった。その上に日本は1990年代までデザイン、開発、ウエハー製造、テスト、販売などすべての事業をひとつの企業がすべて担当する垂直系列化方式を守ったおかげで素材・部品・装備分野の競争力は守った。
日本の半導体神話没落は韓国企業にも示唆点が大きい。米中覇権戦争の狭間で、そして米国または中国との正面対決でどのように対応するのか、精巧な戦略が必要だ。それでも天文学的投資決定も下せるサムスンとSKの堅固なオーナーシップは日本と異なる点だ。
栄光の瞬間は短かった。1993年に再び米国にシェア1位を奪われ、1992年には新生サムスン電子にDRAM分野1位を明け渡した。1990年代の家電市場変化と2000年代のチキンゲームに対応できず日本企業は半導体市場から事実上姿を消した。現在売り上げ基準で世界10大半導体企業のうち日本企業は9位のキオクシア(旧東芝)が唯一だ。
米国政府の強力な牽制が日本の半導体産業急落の出発点だった。1986年に締結された日米半導体協定が象徴的事件だ。1980年代に米半導体産業協会(SIA)とインテル、マイクロンなどは日本の半導体企業の独走を阻止するためダンピング容疑で相次ぎ提訴した。これに対し日米政府が仲裁に乗り出し、日本の対米半導体輸入拡大、ダンピング販売禁止などの内容を盛り込んだ非対称協定を締結した。日本の半導体産業を思うままにできるカードを握った米国はその後日本側が協定履行を怠ると追い詰めて「スーパー301条」まで動員し日本の足を引っ張った。その上で米国は半導体共同開発機関(SEMATEC)、半導体研究協会(SRC)などを設立し自国の半導体競争力強化に出た。
日本に向けられた米国の攻勢が激しかった1990年代に入り世界の半導体市場は激変期を迎えた。家庭用パソコン普及が増える中でマイクロソフトのウィンドウズの新バージョンが出るたびにパソコン買い換え需要が発生した。この需要はほとんどがインテルを中心とした米国のシステム半導体企業が独占した。パソコン買い換え需要が増えると日本よりも価格が安い韓国製DRAMの販売が急増した。当時サムスン電子と現代半導体などが歩留まり中心の価格・生産性向上政策で日本をリードし始めた。米国の顔色をうかがった日本はシステム半導体市場の急成長と韓国のDRAM市場影響力拡大の中で筋道をつかめなかった。日本の不振の中で日米半導体協定も1996年に終結した。半導体覇権を取り戻した米国としてはあえて延長する必要はなかった。
こうした中、1990年代後半のDRAM供給過剰は日本の半導体企業に決定打となった。業績不振が続き日本企業がひとつふたつと歴史の中に消え始めた。DRAM市場から富士通が1999年に撤退したのに続き、NECと日立は事業部を分割してエルピーダメモリーとして統合し、東芝は2001年に撤退した。
◇垂直系列化のおかげで「素材・部品・装備」に競争力
日本の半導体企業はマージンが少ないDRAMを断念する代わりに米国のようにシステム半導体市場に参入し始めた。これを受け政府傘下機関である産業革新機構の主導で「2012年システム半導体生態系構築計画」を立てた。2003年に日立と三菱がシステム半導体部門を分離・統合して現在の自動車用半導体専門企業のルネサスを設立した。ルネサスを中心に、NECエレクトロニクス、富士通、パナソニックを合併させシステムLSI事業を統合する案を進めた。合わせて1990年に代台湾TSMCが普遍化したファブレス・ファウンドリーの水平分業モデルも導入することにした。
しかしすでに世界的にインテル、ザイリンクス、アルテラ、クアルコムなど米国のファブレス企業と台湾TSMCの強固な協業体系が備わった。特にシステム半導体基本技術を持つインテルやクアルコムなどと、ソフトウェア・サービス会社であるマイクロソフトとグーグル間の協業でIT分野の標準を掌握した。日本の半導体企業はこの生態系から排除された。
日本の半導体企業はオーナーシップ不在の中で政府に引きずられ、思い切った投資の好機も逃した。サムスン電子は2005~2007年にインテルよりも2000億円多い8210億円を設備に投資しDRAM分野のリーダーシップを固めた。同じ期間に東芝の投資額は3250億円、ソニーは1467億円にとどまった。その上に日本は1990年代までデザイン、開発、ウエハー製造、テスト、販売などすべての事業をひとつの企業がすべて担当する垂直系列化方式を守ったおかげで素材・部品・装備分野の競争力は守った。
日本の半導体神話没落は韓国企業にも示唆点が大きい。米中覇権戦争の狭間で、そして米国または中国との正面対決でどのように対応するのか、精巧な戦略が必要だ。それでも天文学的投資決定も下せるサムスンとSKの堅固なオーナーシップは日本と異なる点だ。
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