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【コラム】日本の韓半島蔑視、1300年続く傲慢と偏見…「朝鮮は我々の臣下」(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

神功皇后と豊臣秀吉(写真上)らが空から、1907年の韓日新協約(第3次韓日協約)調印当時に李完用(イ・ワンヨン)が伊藤博文の前で印を押す場面を見下ろしている。[写真=ハン・サンイル、ハン・ジョンソン著『日本、漫画で帝国を描く』から]

吉田松陰は夭折したが、征韓論は弟子の伊藤博文(1841-1909)らによって行動に移された。韓半島侵略の象徴的な人物である伊藤博文は自らを豊臣秀吉の生まれ変わりと考えた。伊藤らが韓国を侵略して保護国にし、最終的には植民地として奪取する過程は、過去に神功皇后や豊臣秀吉が掲げた「神国の偉業」を実現したということだ。

実際、1910年8月29日、明治天皇は「東洋の平和と帝国日本の安全を保障するために韓国を日本帝国の保護の下に置く」という内容で、いわゆる併合詔書を出した。そして同日、朝鮮の純宗を昌徳宮(チャンドックン)李王、高宗を徳寿宮(トクスグン)李太王とする詔書も出した。8世紀以降、自らを神国・皇国と称して韓半島に皇帝として振る舞うことを望んだ「千年の願い」が実現する瞬間だった。

同年11月、韓国を強制的に併呑したことを記念するために発行された雑誌『歴史地理朝鮮号』の編集者は、感激のあまり発刊の辞を書いた。「韓国併合は古代以来の日本の歴史的懸案が解決されたもの」ということだ。


こうした歴史を振り返ると、解放以降、韓国人が日本の国王を天皇と呼ぶのは簡単でなかった。韓国政府が1998年から外交的には「天皇」を公式用語といて使っているが、内部では「日王」と呼ぶべきだという主張が少なくない。先日、新任駐日大使が日本に赴任した直後「天皇陛下」という呼称を使ったことをめぐり、また論争が生じている。天皇をめぐる葛藤が1000年以上累積してきた韓日間の特別な歴史と、日本との友好を維持すべき最近の現実の間で、果たしてどこに重心を置くべきなのだろうか。

ハン・ミョンギ/明知大史学科教授


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