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【コラム】日本の韓半島蔑視、1300年続く傲慢と偏見…「朝鮮は我々の臣下」(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

日本の代表的な歴史歪曲の一つ「任那日本府説」を描いた巻き物。4世紀、日本の神功皇后が倭軍を率いて新羅を征伐したという古代歴史書『日本書紀』の内容を描いた。 [中央フォト]

753年(新羅景徳王12年)1月1日、唐の蓬莱宮では新年を祝う儀式が挙行された。ところが式場に出席した新羅の使臣と日本の使臣の間で争いが生じた。どちらが序列が高い位置に立つかをめぐってだ。当初、唐の朝廷は西班の序列1位に吐蕃の使臣、2位に日本の使臣、東班の序列1位に新羅の使臣、2位に大食国の使臣を配置した。ところが日本の使臣の大伴古麻呂は「新羅は昔から日本に朝貢する国だが、日本の使臣より上の位置に立つのは受け入れられない」と唐の官吏らに抗議した。唐の朝廷の責任者、呉懐実はあたふたと日本の使臣と新羅の使臣の位置を入れ替えた。唐の朝廷から誰がより高く待遇されるかをめぐり新羅と日本の使臣が争ったことを「争長事件」と呼ぶ。

争長事件で注目されるのは日本の使臣が新羅を自分たちの朝貢国と規定した事実だ。いわば、日本は「皇帝国」であり、新羅は皇帝に頭を下げる「蕃国」ということだ。このように自国を高めて新羅を見下げる意識は『日本書紀』を通じて公式化された。『日本書紀』仲哀天皇9年条には「仲哀天皇が死去しての神功皇后が新羅征伐に動くと、新羅の王が日本を神国、日本の王を天皇、日本の兵士を神兵と呼んで降伏した後、永遠に朝貢することを誓った」という説話がある。新羅の王の口を借りて日本を持ち上げるこの内容は、今日では日本の史学者も明白に伝説だと評価するが、以後の韓日関連史に及ぼした影響は非常に大きく深刻だった。日本人が韓半島(朝鮮半島)を蔑視する認識の出発点になったからだ。

◆720年『日本書紀』で天皇制を絶対化


720年に編纂された『日本書紀』は、天皇制を美化して絶対化するための歴史書だった。しかし当時、新羅は日本を上国や皇帝国として仕える考えは全くなかった。高句麗の滅亡以降、唐との関係が悪化して戦争まで進み、新羅が一時、日本に低姿勢を見せたのは事実だ。しかし唐との関係が正常化すると、新羅は態度を変えた。734年、日本に派遣された新羅の使臣の金相貞らは自らを王城国の使臣だと称し、激憤した日本の朝廷は彼らを追放した。753年、新羅も日本の使臣の小野田守らが傲慢で無礼な態度を取ると、彼らを追い出した。新羅が自分たちを「天皇の国」として認めようとしないため、日本では759年、新羅を征伐しようという計画が登場し、両国の関係は断絶した。

公式的に国交が断絶したが、日本は韓半島を自国の朝貢国であり蕃国と見なす一方的な態度を変えなかった。1079年、高麗は文宗の病気が悪化すると、日本の商人、王則貞を通じて日本に医師の派遣を要請した。日本政府は議論の末、高麗の要請を断った。高麗が送った文書で聖旨(皇帝の意)という用語を使ったのが蕃国の道理に合わないというのが主な理由だった。

「神国」「天皇国」を自負して韓半島を蔑視する認識は朝鮮時代も同じだった。日本は世宗の朝鮮が明の年号を使用することを非難した。豊臣秀吉は朝鮮侵略当時、「神功皇后の伝説」を喚起しながら活用した。「神国」日本が朝鮮と明を征伐して武威を示すことこそが神功皇后の偉業を継承することだと強調した。

豊臣秀吉と徳川家康の下で外交文書を総括した僧侶の以心崇伝(1569-1633)は朝鮮に対する蔑視観をさらに露骨に表した。以心崇伝は「朝鮮は日本より低い『戌のような国(戌国)』であるため、昔から日本の王と朝鮮の王が国書を交わすことはあり得ない」と強調した。日本は天皇の国で朝鮮はそれより一等級低い朝貢国という認識を表したのだ。

壬辰倭乱(文禄・慶長の役)以降、朝鮮は日本と対等な関係の外交を追求した。しかし朝鮮国王の交渉相手は天皇でなく幕府の将軍だった。朝鮮は両国外交の対等性を確保するため将軍の呼称を「日本国王」にしてほしいと要求したが、日本は応じなかった。天皇を意識したためだ。「天皇の臣下」の将軍を朝鮮国王の交渉相手として維持してこそ、朝鮮を日本の「臣下国」であり「蕃国」として扱うことができるからだ。壬辰倭乱以降、朝鮮通信使が12回も日本に派遣されたが、通信使が天皇に会えなかったのは根源的にこうした背景によるものだ。

古代から日本が神国、天皇の国を自負したのは、中国とは対等であり、韓半島より一等級上の国であることを示すためだった。さらに壬辰倭乱以降、日本は自国を「武威の国」と、朝鮮を「武備がない虚弱な国」と規定した。半面、朝鮮は自分たちが中国と最も親しく、中国に次ぐ文明国という事実を日本に対する優越意識の根拠として前に出した。日本は朝鮮を「中国の虚弱な属国」と見なした一方、朝鮮は日本を「中華文明を知らない野蛮国」と罵倒した。

このようにお互いを眺める根源的な内心は違ったが、壬辰倭乱後の200年余り、朝鮮と日本は平和な関係を維持した。しかし19世紀以降、西欧列強の軍事的脅威に危機感を強めた日本の知識人はまた天皇を呼ぶことになった。代表的な人物が吉田松陰(1830-59)だ。吉田松陰はロシアとの貿易で失ったものを朝鮮と中国を征服して埋めなければいけないと主張した。吉田松陰は「天皇が治めた古代は韓半島が日本に朝貢したが、その後は傲慢だった」とし、神功皇后と豊臣秀吉の偉業を継承して朝鮮を占領すべきだと強調した。朝鮮を征服して天皇にひざまずかせることこそが本来の国体を回復する道だと力説した。いわゆる征韓論を露骨に表したのだ。


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