先週末のKBS(韓国放送公社)バラエティ番組『1泊2日』のテーマは冬季スポーツだった。出演陣はキム・ヨナの登場を待ちこがれた。ある出演者は「キム・ヨナ選手が1泊2日に出演してくれれば私費で(出演料)2000万ウォン(約190万円)出します」という映像メッセージを送った。
キム・ヨナがリンクを離れて今年で7年。私たちは今も「フィギュア女王」を忘れられずにいる。特に世界が寒さで閉じ込められる冬になればなおさらだ。あまりにも正確で冷静そのものだった動作、そして全身から発散される熱情的な演技が懐かしい。
キム・ヨナの「関連検索語」だった浅田真央の近況もまた気になる。ニュースを見ると日本では「第2の浅田」と言われる本田真凜が大きな人気を博しているようだ。浅田は2017年にスケート靴を脱いだ。フィギュア選手からは引退したが、同年12月にホノルルマラソン大会で完走(4時間34分13秒)するなど第2の人生に元気に踏み出している。
マラソンを完走した後に浅田が歓呼する写真を見ることができた。ソーシャルメディア(SNS)に投稿される写真からも平凡な日常ものぞくことができる。リンクの上でジャンプし、着地して、回転していたときの少し危なっかしい様子とは全く違った。引退後、浅田は選手だったときはあり得なかった夜食を食べるなど、平凡な30代の日常を楽しんでいるという。そんな中、昨年8月に日本の雑誌「Sports Graphic Number」に掲載された浅田の寄稿文を読んだ。キム・ヨナに関して書かれたものだった。
1990年9月生まれの同い年である2人は2004年、国際スケート連盟(ISU)ジュニアグランプリファイナルで初めて会ったという。キム・ヨナと浅田は顔を合わせる前からお互いのことを知っていた。非常に似ていて、また大いに違った韓国と日本の有望株は会う前からライバルになる運命だった。ジュニア時代、キム・ヨナと浅田は勝敗を繰り返した。韓日メディアはこの時から2人の対決構図を作りあげていった。2人が15、6歳の時だった。浅田は寄稿文に「ジュニア時代、ヨナと話をする機会が多かった。ヨナのお母さんが韓国のおかずをくれたり、私のお母さんがお返しで日本食をあげたりした。ヨナが日本に来たら一緒に外出してプリクラも撮るなど仲良く過ごした」と書いた。その次期の2人はどこにでもいるような平凡な10代の友達だった。
浅田は「大人になると周辺(メディアとファン)が私たちをライバルとして扱って『対決』に集中した。私たちの間に距離ができた。勝負の世界では仕方のないことだが、残念なことだった。私だけではなく、ヨナも一緒だった」と振り返った。続いて「インタビューで『スケートは自分との戦い』と言ったが、私もヨナに勝ちたいという気持ちがあった。頂点に立った時も追い越される日がくるようで不安だった」と付け加えた。
2010バンクーバー冬季五輪でキム・ヨナが金メダルを取った。フィギュアを芸術の域に引き上げた舞台だった。浅田は銀メダルだった。浅田は悔し涙を流したといった。この結果を見てキム・ヨナをモーツァルト、浅田をサリエリとみなす人々が多かった。
1カ月後の世界選手権大会で2人の順位が入れ替わった。それでも雰囲気は変わらなかった。私たちはキム・ヨナをとても愛し、彼女のことをとても誇李に思った。また、日本に勝ちたい「国ポン(国家+ヒロポン、盲目的な愛国主義)」があまりにも大きかった。ライバルの語源は川(river)だとしても、キム・ヨナと浅田の間には巨大な大韓海峡が横たわっていた。
2014年ソチ五輪を最後に2人の戦いは終わった。キム・ヨナが銀メダルを取り、浅田は6位に留まった。そのとき私たちは不公正判定(開催国ロシアのアデリナ・ソトニコワが金メダル)に怒った。一方で、ほんの少し「浅田に負けなくてよかった」と考えていたかもしれない。
浅田は寄稿文に「ソチ五輪が終わった後、控室で私がヨナに『一緒に写真を撮ろう』と言った。『これで(ライバル関係が)終わる』と思った記憶がある。お互いに『お疲れさま』と声をかけた」と書いた。キム・ヨナの最後の演技が終わると2人は微妙な距離を狭めることができた。14歳の少女に大人がけしかけた戦いを24歳の淑女が終わらせたのだ。
キム・ヨナと浅田真央のプリクラ写真が見たい(2)
キム・ヨナがリンクを離れて今年で7年。私たちは今も「フィギュア女王」を忘れられずにいる。特に世界が寒さで閉じ込められる冬になればなおさらだ。あまりにも正確で冷静そのものだった動作、そして全身から発散される熱情的な演技が懐かしい。
キム・ヨナの「関連検索語」だった浅田真央の近況もまた気になる。ニュースを見ると日本では「第2の浅田」と言われる本田真凜が大きな人気を博しているようだ。浅田は2017年にスケート靴を脱いだ。フィギュア選手からは引退したが、同年12月にホノルルマラソン大会で完走(4時間34分13秒)するなど第2の人生に元気に踏み出している。
マラソンを完走した後に浅田が歓呼する写真を見ることができた。ソーシャルメディア(SNS)に投稿される写真からも平凡な日常ものぞくことができる。リンクの上でジャンプし、着地して、回転していたときの少し危なっかしい様子とは全く違った。引退後、浅田は選手だったときはあり得なかった夜食を食べるなど、平凡な30代の日常を楽しんでいるという。そんな中、昨年8月に日本の雑誌「Sports Graphic Number」に掲載された浅田の寄稿文を読んだ。キム・ヨナに関して書かれたものだった。
1990年9月生まれの同い年である2人は2004年、国際スケート連盟(ISU)ジュニアグランプリファイナルで初めて会ったという。キム・ヨナと浅田は顔を合わせる前からお互いのことを知っていた。非常に似ていて、また大いに違った韓国と日本の有望株は会う前からライバルになる運命だった。ジュニア時代、キム・ヨナと浅田は勝敗を繰り返した。韓日メディアはこの時から2人の対決構図を作りあげていった。2人が15、6歳の時だった。浅田は寄稿文に「ジュニア時代、ヨナと話をする機会が多かった。ヨナのお母さんが韓国のおかずをくれたり、私のお母さんがお返しで日本食をあげたりした。ヨナが日本に来たら一緒に外出してプリクラも撮るなど仲良く過ごした」と書いた。その次期の2人はどこにでもいるような平凡な10代の友達だった。
浅田は「大人になると周辺(メディアとファン)が私たちをライバルとして扱って『対決』に集中した。私たちの間に距離ができた。勝負の世界では仕方のないことだが、残念なことだった。私だけではなく、ヨナも一緒だった」と振り返った。続いて「インタビューで『スケートは自分との戦い』と言ったが、私もヨナに勝ちたいという気持ちがあった。頂点に立った時も追い越される日がくるようで不安だった」と付け加えた。
2010バンクーバー冬季五輪でキム・ヨナが金メダルを取った。フィギュアを芸術の域に引き上げた舞台だった。浅田は銀メダルだった。浅田は悔し涙を流したといった。この結果を見てキム・ヨナをモーツァルト、浅田をサリエリとみなす人々が多かった。
1カ月後の世界選手権大会で2人の順位が入れ替わった。それでも雰囲気は変わらなかった。私たちはキム・ヨナをとても愛し、彼女のことをとても誇李に思った。また、日本に勝ちたい「国ポン(国家+ヒロポン、盲目的な愛国主義)」があまりにも大きかった。ライバルの語源は川(river)だとしても、キム・ヨナと浅田の間には巨大な大韓海峡が横たわっていた。
2014年ソチ五輪を最後に2人の戦いは終わった。キム・ヨナが銀メダルを取り、浅田は6位に留まった。そのとき私たちは不公正判定(開催国ロシアのアデリナ・ソトニコワが金メダル)に怒った。一方で、ほんの少し「浅田に負けなくてよかった」と考えていたかもしれない。
浅田は寄稿文に「ソチ五輪が終わった後、控室で私がヨナに『一緒に写真を撮ろう』と言った。『これで(ライバル関係が)終わる』と思った記憶がある。お互いに『お疲れさま』と声をかけた」と書いた。キム・ヨナの最後の演技が終わると2人は微妙な距離を狭めることができた。14歳の少女に大人がけしかけた戦いを24歳の淑女が終わらせたのだ。
キム・ヨナと浅田真央のプリクラ写真が見たい(2)
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