立冬が過ぎた。冬に入る時期だ。冷たい風に落ち葉が飛ばされる。落ちていく葉の痛みと残された枝の寂しさ。11月は一年の中で冬の入り口だ。同時に一時代の冬の入り口でもある。
大韓帝国の冬は11月に始まった。1905年11月18日0時ごろ、慶運宮の夜空は乙巳勒約の現場を見守った。日本の特使の伊藤博文は韓国政府に韓国外交権日本委託条約案を強要した。ついに衝撃的な勒約の話が広まった。
人心は怒った。五賊の処罰と勒約の取り消しを要求する上訴が続いた。皇城新聞11月20日の論説「是日也放声大哭」は抗日言論に火をつけた。論説は激しかった。「四千里の領土と五百年の宗社を他人に奉献し、二千万の民を他人の奴隷にする、犬豚にも劣る」韓国の大臣を糾弾した。「我々の二千万の奴隷になった同胞よ、生きているのか死んでしまったのか、檀紀以来四千年、国民の精神が一夜にして突然滅亡してしまったのか」と悲しんだ。論説は「痛哉、痛哉、同胞、同胞」と叫んで終わった。
◆「是日也放声大哭」の絶叫、今でも悲痛
皇城新聞が閉鎖されると、大韓毎日申報が闘争を続けた。皇城新聞に掲載された勒約の顛末に関する記事を入手して22日から25日まで連載し、27日にはこの事件の顛末を整理して号外を出し、勒約が不当であることを布告した。号外はそれぞれ「韓日新条約請諦顛末」という漢字の記事と、「THE MAKING OF A TREATY AND THE PASSING OF AN EMPIRE」(条約締結と帝国滅亡)という英語の記事だが、勒約の顛末に関する内容だった。「是日也放声大哭」を英語で鑑賞したい人はこの号外を読めばよい。
ここで少し条約締結顛末の記事を見てみよう。11月11日に親書を奉呈した伊藤は、15日に高宗(コジョン)を謁見し、16日に韓国の大臣らを招請して3つの条項の条約案締結を要求した。韓国外部(外務部)の廃止、韓国外交権の日本委託、駐韓日本公使の統監改称が主な内容だった。17日に駐韓日本公使の林権助は韓国政府の大臣を招請し、同じ要求を繰り返した。林は御前会議の開会を要求したが、参政大臣の韓圭ソル(ハン・ギュソル)は政府会議で決める問題であり御前会議は必要ないと拒否した。
林はすぐに慶運宮に直行して大臣らに御前会議の開会を要求し、まもなく日本軍が宮廷に乱入して高宗(コジョン)の居所がある漱玉軒に進撃して銃剣で包囲した。続いて現場に到着した伊藤は御前会議を要求したが、参政大臣の韓圭ソルは応じず、高宗も必要ないから大臣と協議すべきとして拒否すると、その場で議論し、条約案に関する文言修正と大臣一人一人の意見を受けた。韓国外部に日本軍を送り、官印を強奪して条約を調印した。
顛末を読んでみると、疑問が生じる。この日、政府会議は開かれたのだろうか。強圧的な雰囲気だったが、とにかく政府会議を通じて条約案の可否が決定されたのか。しかし政府会議が開かれたという証拠はない。甲午改革期間の「内閣官制」もそうだったが、大韓帝国期の「議政府(ウィジョンブ)官制」によると、国際条約は議政府会議を通すと明示されている。乙巳勒約の場合、16日に日本公使館から韓国外部に条約の提案が入ってきたが、議政府会議は開かれなかった。
議政府会議とは何か。「議政府会議規定」には具体的な会議手続きが記録されている。首席大臣が開会を宣言すれば、主務大臣の議案説明と討論を経て、各大臣が可否標題を終え、首席大臣がこれを集めて多数意見に基づき自らの意見の標題を終え、閉会を宣言する。首席大臣と主務大臣が署名した上奏案(政府原案+討論記録+可否標題)は、御押と御璽で皇帝の裁可を受けて官報に頒布される。
現在ソウル大奎章閣に所蔵されている『奏本』(奎17703)は、このように議政府の会議を経て皇帝の裁可を受けた上奏案を綴ったものだ。『奏本』には乙巳勒約に関する上奏案がない。議政府会議もなく、首席大臣の上奏もなく、皇帝の裁可もなかったからだ。乙巳勒約の前後に高宗が裁可した案件は奏本第157号「中枢院官制改正件」(1905.11.8)、第158号「度量衡製造所職制及び実施局職制件」(1905.12.9)で、乙巳勒約に関するいかなる奏本も発見されていない。会議がなかったため当然のことだ。
ここで『奏本』に収録された「中枢院官制改正件」は乙巳勒約を理解する重要な資料だ。中枢院は甲午改革期に設置された国政諮問機構だった。途中、中枢院を議会に改編しようとする独立協会の動きもあったが、概して有名無実だった。ところが勅令第46号「中枢院官制改正件」(1905.10.24)により中枢院は「君国重要事項と法律勅令の制定と改廃」を審査して議定(議会活動)できる権限を得た。なら、乙巳勒約の案件は議政府の会議を経た後にも、皇帝の裁可を受ける前にまた中枢院に諮問すべきことだった。
これに先立ち顛末の記事で参政大臣の韓圭ソルが御前会議を開けという林の要求に対し、政府会議で決める問題だと答えたのは正しかった。議政府会議と中枢院への諮問なしに慶運宮で伊藤が御前会議を口実に韓国大臣と夜を明かしながらいくら話しても、それは閑談にすぎなかった。韓国の議政府会議に伊藤・林・長谷川好道は入会権がない人物だったし、伊藤が韓国の大臣に条約案に対する可否を尋ねたのも、またそれに対して韓国の大臣が可否や意見を述べても、会議としていかなる効力もなかった。
◆開かれもしない御前会議、日本も自認
一つ確認しておく問題がある。17日夜の勒約の現場にいた韓国の大臣のうち李完用(イ・ワンヨン)、朴斉純(パク・ジェスン)、李址鎔(イ・ジヨン)、権重顕(クォン・ジュンヒョン)、李根澤(イ・グンテク)が3日後に連名の上訴をした。韓国の大臣は17日、日本公使館で林と条約案について争論したが、権重顕は議政府会議と中枢院への諮問がない状態で決議できないという点を明確にした。林は皇帝の決裁一つで終わる問題だとし、これを無視して強制的に拝見し、韓国の大臣は高宗に会って状況を報告し、対策を議論した後に伊藤と会った。
ここからが重要だ。伊藤が参政大臣に会議を始めさせ、参政大臣が各大臣に意見を述べさせると、伊藤が割り込んで御前会議の状況だけを話せばよいと干渉した。伊藤は韓国君臣の御前会議が条約案についてすでに結論を出し、韓国の大臣は伊藤と交渉しに来た人ではなく御前会議の決定を履行しに来た人だと言い張った。韓国の大臣の可否意見も伊藤が判定した。実際、御前会議は日本側が条約案の強制妥結のために吹っ掛ける概念だった。会議は伊藤が来る前にすでに終わり、伊藤は会議の結論を確認すればよいということだが、これは17日夜の伊藤と韓国大臣の協議が会議として意味がないということを彼らも自認するというものだった。しかしそのような意味の御前会議は開かれることもなく、開かれる必要もなかった。乙巳勒約は無効だ。
ノ・グァンボム/ソウル大奎章閣韓国学研究院教授
大韓帝国の冬は11月に始まった。1905年11月18日0時ごろ、慶運宮の夜空は乙巳勒約の現場を見守った。日本の特使の伊藤博文は韓国政府に韓国外交権日本委託条約案を強要した。ついに衝撃的な勒約の話が広まった。
人心は怒った。五賊の処罰と勒約の取り消しを要求する上訴が続いた。皇城新聞11月20日の論説「是日也放声大哭」は抗日言論に火をつけた。論説は激しかった。「四千里の領土と五百年の宗社を他人に奉献し、二千万の民を他人の奴隷にする、犬豚にも劣る」韓国の大臣を糾弾した。「我々の二千万の奴隷になった同胞よ、生きているのか死んでしまったのか、檀紀以来四千年、国民の精神が一夜にして突然滅亡してしまったのか」と悲しんだ。論説は「痛哉、痛哉、同胞、同胞」と叫んで終わった。
◆「是日也放声大哭」の絶叫、今でも悲痛
皇城新聞が閉鎖されると、大韓毎日申報が闘争を続けた。皇城新聞に掲載された勒約の顛末に関する記事を入手して22日から25日まで連載し、27日にはこの事件の顛末を整理して号外を出し、勒約が不当であることを布告した。号外はそれぞれ「韓日新条約請諦顛末」という漢字の記事と、「THE MAKING OF A TREATY AND THE PASSING OF AN EMPIRE」(条約締結と帝国滅亡)という英語の記事だが、勒約の顛末に関する内容だった。「是日也放声大哭」を英語で鑑賞したい人はこの号外を読めばよい。
ここで少し条約締結顛末の記事を見てみよう。11月11日に親書を奉呈した伊藤は、15日に高宗(コジョン)を謁見し、16日に韓国の大臣らを招請して3つの条項の条約案締結を要求した。韓国外部(外務部)の廃止、韓国外交権の日本委託、駐韓日本公使の統監改称が主な内容だった。17日に駐韓日本公使の林権助は韓国政府の大臣を招請し、同じ要求を繰り返した。林は御前会議の開会を要求したが、参政大臣の韓圭ソル(ハン・ギュソル)は政府会議で決める問題であり御前会議は必要ないと拒否した。
林はすぐに慶運宮に直行して大臣らに御前会議の開会を要求し、まもなく日本軍が宮廷に乱入して高宗(コジョン)の居所がある漱玉軒に進撃して銃剣で包囲した。続いて現場に到着した伊藤は御前会議を要求したが、参政大臣の韓圭ソルは応じず、高宗も必要ないから大臣と協議すべきとして拒否すると、その場で議論し、条約案に関する文言修正と大臣一人一人の意見を受けた。韓国外部に日本軍を送り、官印を強奪して条約を調印した。
顛末を読んでみると、疑問が生じる。この日、政府会議は開かれたのだろうか。強圧的な雰囲気だったが、とにかく政府会議を通じて条約案の可否が決定されたのか。しかし政府会議が開かれたという証拠はない。甲午改革期間の「内閣官制」もそうだったが、大韓帝国期の「議政府(ウィジョンブ)官制」によると、国際条約は議政府会議を通すと明示されている。乙巳勒約の場合、16日に日本公使館から韓国外部に条約の提案が入ってきたが、議政府会議は開かれなかった。
議政府会議とは何か。「議政府会議規定」には具体的な会議手続きが記録されている。首席大臣が開会を宣言すれば、主務大臣の議案説明と討論を経て、各大臣が可否標題を終え、首席大臣がこれを集めて多数意見に基づき自らの意見の標題を終え、閉会を宣言する。首席大臣と主務大臣が署名した上奏案(政府原案+討論記録+可否標題)は、御押と御璽で皇帝の裁可を受けて官報に頒布される。
現在ソウル大奎章閣に所蔵されている『奏本』(奎17703)は、このように議政府の会議を経て皇帝の裁可を受けた上奏案を綴ったものだ。『奏本』には乙巳勒約に関する上奏案がない。議政府会議もなく、首席大臣の上奏もなく、皇帝の裁可もなかったからだ。乙巳勒約の前後に高宗が裁可した案件は奏本第157号「中枢院官制改正件」(1905.11.8)、第158号「度量衡製造所職制及び実施局職制件」(1905.12.9)で、乙巳勒約に関するいかなる奏本も発見されていない。会議がなかったため当然のことだ。
ここで『奏本』に収録された「中枢院官制改正件」は乙巳勒約を理解する重要な資料だ。中枢院は甲午改革期に設置された国政諮問機構だった。途中、中枢院を議会に改編しようとする独立協会の動きもあったが、概して有名無実だった。ところが勅令第46号「中枢院官制改正件」(1905.10.24)により中枢院は「君国重要事項と法律勅令の制定と改廃」を審査して議定(議会活動)できる権限を得た。なら、乙巳勒約の案件は議政府の会議を経た後にも、皇帝の裁可を受ける前にまた中枢院に諮問すべきことだった。
これに先立ち顛末の記事で参政大臣の韓圭ソルが御前会議を開けという林の要求に対し、政府会議で決める問題だと答えたのは正しかった。議政府会議と中枢院への諮問なしに慶運宮で伊藤が御前会議を口実に韓国大臣と夜を明かしながらいくら話しても、それは閑談にすぎなかった。韓国の議政府会議に伊藤・林・長谷川好道は入会権がない人物だったし、伊藤が韓国の大臣に条約案に対する可否を尋ねたのも、またそれに対して韓国の大臣が可否や意見を述べても、会議としていかなる効力もなかった。
◆開かれもしない御前会議、日本も自認
一つ確認しておく問題がある。17日夜の勒約の現場にいた韓国の大臣のうち李完用(イ・ワンヨン)、朴斉純(パク・ジェスン)、李址鎔(イ・ジヨン)、権重顕(クォン・ジュンヒョン)、李根澤(イ・グンテク)が3日後に連名の上訴をした。韓国の大臣は17日、日本公使館で林と条約案について争論したが、権重顕は議政府会議と中枢院への諮問がない状態で決議できないという点を明確にした。林は皇帝の決裁一つで終わる問題だとし、これを無視して強制的に拝見し、韓国の大臣は高宗に会って状況を報告し、対策を議論した後に伊藤と会った。
ここからが重要だ。伊藤が参政大臣に会議を始めさせ、参政大臣が各大臣に意見を述べさせると、伊藤が割り込んで御前会議の状況だけを話せばよいと干渉した。伊藤は韓国君臣の御前会議が条約案についてすでに結論を出し、韓国の大臣は伊藤と交渉しに来た人ではなく御前会議の決定を履行しに来た人だと言い張った。韓国の大臣の可否意見も伊藤が判定した。実際、御前会議は日本側が条約案の強制妥結のために吹っ掛ける概念だった。会議は伊藤が来る前にすでに終わり、伊藤は会議の結論を確認すればよいということだが、これは17日夜の伊藤と韓国大臣の協議が会議として意味がないということを彼らも自認するというものだった。しかしそのような意味の御前会議は開かれることもなく、開かれる必要もなかった。乙巳勒約は無効だ。
ノ・グァンボム/ソウル大奎章閣韓国学研究院教授
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