1920年10月21日午前8時ごろ、中国吉林省和龍市白雲坪。北路軍政署第2梯隊600人が息を殺して待ち伏せしていた。ついに日本軍が現れた。第2梯隊長の鉄騏・李範ソク(イ・ボムソク)の銃声に安川二郎少佐が倒れた。独立軍600人は一斉に射撃を始めた。26日まで青山里(チョサンリ)の谷のあちこちで繰り広げられた青山里戦闘の始まりだった。
抗日武装闘争史で最大の勝利だった青山里戦闘が100周年を迎えた。ところが記念行事は「比較的」静かに行われた。日本との関係で強硬姿勢を見せ、国軍の根を光復軍に正すべきと強調する文在寅(ムン・ジェイン)政権なら、大々的に開催することも考えられた。意外だ。24日に国立中央博物館で丁世均(チョン・セギュン)首相をはじめとする政府関係者や独立有功者の遺族が出席した中、「青山里大捷第100周年記念式」が開かれただけだ。文在寅大統領のメッセージはなかった。なぜだろうか。
韓国光復軍同志会が21日に主管した「韓国独立軍3大大捷第100周年記念式」に目を向けてみよう。3大大捷とは鳳梧洞(ボンオドン)・青山里・大甸子嶺(デジョンジャリョン)戦闘を意味する。大甸子嶺戦闘は1933年にあった。青山里戦闘を切り離すよりは鳳梧洞戦闘と一つにまとめようとするのが与党側の意図という合理的な疑いを抱く。
特に文大統領は繰り返し鳳梧洞戦闘に言及してきた。鳳梧洞戦闘100周年の6月7日、「100年前の今日、洪範図(ホン・ボムド)将軍と崔振東(チェ・ジンドン)将軍が率いる我々の独立軍が、中国鳳梧洞の谷で日本の正規軍『越江追撃隊』と独立闘争最初の全面戦争をし、輝かしい勝利を収めた」とし「勝利と希望の歴史をつくった平凡な国民の偉大な力を胸に刻む」とコメントした。
今年の三一節(独立運動記念日)には「独立軍は独立闘争の最初に全面戦をし、大勝を収めた。それは洪範図将軍が率いた鳳梧洞戦闘」と述べた。そして「偉大な独立軍の大将の洪範図将軍の遺骨をようやく国内に迎えることになった」と明らかにした。カザフスタンにある洪範図将軍の遺骨が国内に返還される事業だが、現在、新型コロナの影響で遅れている。
文大統領は先月、『大韓独立軍総司令官洪範図評伝』を読書の月の推薦図書に挙げた。関連事情に詳しい政府筋は「文大統領は洪範図将軍の遺骨返還に大きな関心を持っている」とし「いつからか公式文書には『鳳梧洞・青山里』と書いている」と話した。鳳梧洞戦闘は昨年、映画に製作され、与党の重鎮議員が洪範図将軍記念事業会の理事長を務めている。
鳳梧洞戦闘と青山里戦闘ともに独立戦争で収めた貴重な勝利だ。しかし戦果や意義をめぐり青山里戦闘が日帝相手の勝利のうち最大という点を否認する人はいない。金佐鎮(キム・ジャジン)将軍の北路軍政署を中心に連合した独立軍は青山里戦闘で日帝に大勝した。日帝は1000人以上の死傷者を出した。日帝の公式記録には戦死7人、負傷15人と出ている。しかし戦傷を含む患者が875人という報告もあり、日帝が戦闘被害を歪曲した可能性が高い(『軍人李範ソクを語る』)。
青山里戦闘は始まったばかり抗日武装闘争の火種を守ったという評価だ。1920年、満州と沿海州の一帯で50余りの抗日武装団体が国内進攻作戦を展開した。日本軍は6月4日の三屯子(サムドゥンジャ)戦闘と同月7日の鳳梧洞戦闘で独立軍の奇襲で敗れた。日帝は独立軍の根を断つために朝鮮軍・ウラジオストク派遣軍・関東軍を集め、大々的な討伐作戦を準備した。1万8000-2万人の兵力で、当時では先端武器の航空機も動員した。
惨敗した日帝は腹いせに3600人の良民を虐殺した。李範ソク将軍記念事業会のパク・ナムス会長(予備役陸軍中将)は「青山里戦闘は庚戌国恥後10年の日帝強制支配に大きな打撃を与え、抗日武装闘争を光復(解放)につないだ原動力」と評価した。
【コラム】抗日武装闘争史でも分裂を招く韓国政府(2)
抗日武装闘争史で最大の勝利だった青山里戦闘が100周年を迎えた。ところが記念行事は「比較的」静かに行われた。日本との関係で強硬姿勢を見せ、国軍の根を光復軍に正すべきと強調する文在寅(ムン・ジェイン)政権なら、大々的に開催することも考えられた。意外だ。24日に国立中央博物館で丁世均(チョン・セギュン)首相をはじめとする政府関係者や独立有功者の遺族が出席した中、「青山里大捷第100周年記念式」が開かれただけだ。文在寅大統領のメッセージはなかった。なぜだろうか。
韓国光復軍同志会が21日に主管した「韓国独立軍3大大捷第100周年記念式」に目を向けてみよう。3大大捷とは鳳梧洞(ボンオドン)・青山里・大甸子嶺(デジョンジャリョン)戦闘を意味する。大甸子嶺戦闘は1933年にあった。青山里戦闘を切り離すよりは鳳梧洞戦闘と一つにまとめようとするのが与党側の意図という合理的な疑いを抱く。
特に文大統領は繰り返し鳳梧洞戦闘に言及してきた。鳳梧洞戦闘100周年の6月7日、「100年前の今日、洪範図(ホン・ボムド)将軍と崔振東(チェ・ジンドン)将軍が率いる我々の独立軍が、中国鳳梧洞の谷で日本の正規軍『越江追撃隊』と独立闘争最初の全面戦争をし、輝かしい勝利を収めた」とし「勝利と希望の歴史をつくった平凡な国民の偉大な力を胸に刻む」とコメントした。
今年の三一節(独立運動記念日)には「独立軍は独立闘争の最初に全面戦をし、大勝を収めた。それは洪範図将軍が率いた鳳梧洞戦闘」と述べた。そして「偉大な独立軍の大将の洪範図将軍の遺骨をようやく国内に迎えることになった」と明らかにした。カザフスタンにある洪範図将軍の遺骨が国内に返還される事業だが、現在、新型コロナの影響で遅れている。
文大統領は先月、『大韓独立軍総司令官洪範図評伝』を読書の月の推薦図書に挙げた。関連事情に詳しい政府筋は「文大統領は洪範図将軍の遺骨返還に大きな関心を持っている」とし「いつからか公式文書には『鳳梧洞・青山里』と書いている」と話した。鳳梧洞戦闘は昨年、映画に製作され、与党の重鎮議員が洪範図将軍記念事業会の理事長を務めている。
鳳梧洞戦闘と青山里戦闘ともに独立戦争で収めた貴重な勝利だ。しかし戦果や意義をめぐり青山里戦闘が日帝相手の勝利のうち最大という点を否認する人はいない。金佐鎮(キム・ジャジン)将軍の北路軍政署を中心に連合した独立軍は青山里戦闘で日帝に大勝した。日帝は1000人以上の死傷者を出した。日帝の公式記録には戦死7人、負傷15人と出ている。しかし戦傷を含む患者が875人という報告もあり、日帝が戦闘被害を歪曲した可能性が高い(『軍人李範ソクを語る』)。
青山里戦闘は始まったばかり抗日武装闘争の火種を守ったという評価だ。1920年、満州と沿海州の一帯で50余りの抗日武装団体が国内進攻作戦を展開した。日本軍は6月4日の三屯子(サムドゥンジャ)戦闘と同月7日の鳳梧洞戦闘で独立軍の奇襲で敗れた。日帝は独立軍の根を断つために朝鮮軍・ウラジオストク派遣軍・関東軍を集め、大々的な討伐作戦を準備した。1万8000-2万人の兵力で、当時では先端武器の航空機も動員した。
惨敗した日帝は腹いせに3600人の良民を虐殺した。李範ソク将軍記念事業会のパク・ナムス会長(予備役陸軍中将)は「青山里戦闘は庚戌国恥後10年の日帝強制支配に大きな打撃を与え、抗日武装闘争を光復(解放)につないだ原動力」と評価した。
【コラム】抗日武装闘争史でも分裂を招く韓国政府(2)
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