◆歴史とは何か
過去の問題には2つの次元が存在する。(1)受難の歴史を記録する学問的実証(2)犠牲者の苦痛を記念する政治的活動。この2つの次元が互いに生産的な緊張関係になってこそ正しい記念が可能だ。しかし民族主義者は記念の効果を高めるために厳密な実証を省略することがある。植民地近代化論者はその隙を突いて学問的実証を記念の必要性を否定するのに使う。
歴史で「実証」は重要だが、「実証主義」は別の問題だ。実際、植民地近代化論者も民族主義者以上に理念的だ。反日感情の根がシャーマニズムという主張は学問でなく、日本の右翼が朝鮮人に対して抱いた人種的偏見の再版にすぎない。民族史学を批判しようとしたところ、過去の植民史観に退行してしまったのだ。『反日種族主義』は「朝鮮人」の性根を作り直そうという21世紀の民族改造論だ。
一方、学問的研究に政治的な情熱を前面に出せば理念で現実を裁断し、状況を誇張したり善悪の構図にする誤謬を犯す。慰安婦像は「純潔な少女」のイメージで表象されたが、我々は慰安婦になる過程に多様な方式と事情があることを知っている。事実に忠実だったなら、朝鮮徴用工の銅像が日本の炭鉱労働者をモデルに作られたというきまり悪い是非に巻き込まれずに済んだだろう。
李栄薫は1948年の李承晩を拠りどころにして建国運動をし、趙廷来はまだ智異山(チリサン)で解放闘争をする。2つの勢力が各自の国家を建設したり民族を解放するという妄想にとらわれて戦うのを引き止めることはできない。一つ確実な点は、その戦いが市民の自由主義的な権利を制約する方向に流れてはいけないということだ。
趙廷来は過去に小説のため国家保安法で起訴されたことがある。その彼が最近、反民族行為特別調査委員会の復活を主張した。「150万人、160万人という親日派をすべて断罪しなければいけないと考える。日本の罪悪に対して肩入れし、歴史を歪曲する者を蒸発させる新しい法を作る運動が展開されている。私が積極的に取り組もうと思う」。国家保安法が去って民族保安法が来るようだ。
断罪すべきその150万人、160万人とは誰なのか。おそらく100万人に達すると言われた「韓国内スパイ」ほど無関係の人たちだろう。結局、自分のドグマに異議を提起する者は民族反逆者と見なして断罪するということだ。市民を「容共」に向かわせた文化が「民族精気」という名の民族狂気として復活した。
E.H.カーの言葉のように歴史は現在と過去の間の尽きない対話だ。その対話を法で断絶してはいけない。
陳重権(チン・ジュングォン)/元東洋大教授
【コラム】「解放戦後史」に戻った国「韓国」…李栄薫の「反日種族主義」vs趙廷来の「土着倭寇」(1)
過去の問題には2つの次元が存在する。(1)受難の歴史を記録する学問的実証(2)犠牲者の苦痛を記念する政治的活動。この2つの次元が互いに生産的な緊張関係になってこそ正しい記念が可能だ。しかし民族主義者は記念の効果を高めるために厳密な実証を省略することがある。植民地近代化論者はその隙を突いて学問的実証を記念の必要性を否定するのに使う。
歴史で「実証」は重要だが、「実証主義」は別の問題だ。実際、植民地近代化論者も民族主義者以上に理念的だ。反日感情の根がシャーマニズムという主張は学問でなく、日本の右翼が朝鮮人に対して抱いた人種的偏見の再版にすぎない。民族史学を批判しようとしたところ、過去の植民史観に退行してしまったのだ。『反日種族主義』は「朝鮮人」の性根を作り直そうという21世紀の民族改造論だ。
一方、学問的研究に政治的な情熱を前面に出せば理念で現実を裁断し、状況を誇張したり善悪の構図にする誤謬を犯す。慰安婦像は「純潔な少女」のイメージで表象されたが、我々は慰安婦になる過程に多様な方式と事情があることを知っている。事実に忠実だったなら、朝鮮徴用工の銅像が日本の炭鉱労働者をモデルに作られたというきまり悪い是非に巻き込まれずに済んだだろう。
李栄薫は1948年の李承晩を拠りどころにして建国運動をし、趙廷来はまだ智異山(チリサン)で解放闘争をする。2つの勢力が各自の国家を建設したり民族を解放するという妄想にとらわれて戦うのを引き止めることはできない。一つ確実な点は、その戦いが市民の自由主義的な権利を制約する方向に流れてはいけないということだ。
趙廷来は過去に小説のため国家保安法で起訴されたことがある。その彼が最近、反民族行為特別調査委員会の復活を主張した。「150万人、160万人という親日派をすべて断罪しなければいけないと考える。日本の罪悪に対して肩入れし、歴史を歪曲する者を蒸発させる新しい法を作る運動が展開されている。私が積極的に取り組もうと思う」。国家保安法が去って民族保安法が来るようだ。
断罪すべきその150万人、160万人とは誰なのか。おそらく100万人に達すると言われた「韓国内スパイ」ほど無関係の人たちだろう。結局、自分のドグマに異議を提起する者は民族反逆者と見なして断罪するということだ。市民を「容共」に向かわせた文化が「民族精気」という名の民族狂気として復活した。
E.H.カーの言葉のように歴史は現在と過去の間の尽きない対話だ。その対話を法で断絶してはいけない。
陳重権(チン・ジュングォン)/元東洋大教授
【コラム】「解放戦後史」に戻った国「韓国」…李栄薫の「反日種族主義」vs趙廷来の「土着倭寇」(1)
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