餃子と松餅
松餅がなぜ一年中食べる料理から秋夕の時食に位置付けが変わったのかは定かでない。19世紀以降漢江(ハンガン)南部で秋夕の食べ物として定着し、1970年代以降はコメの自給が進んで秋夕の代表的な食べ物になったという見解が支配的だ。
松餅はどのように作られたのだろうか。中国の影響があった。まず、穀物粉を木の葉で包んで煮る角黍、あるいはチュアク(もち米を練って油で焼いた餅)から始まったという見方がある。角黍は現在中国の粽子(ちまき)だ。粽子はもち米の練り粉の中にナツメ・肉・小豆などを入れてゆでる。昔はアワを中身にして包んで食べたので「黍」という文字が入り、もち米に変わることで粽子に名前が変わった。中国と日本がもち米で餅を作ることとは異なり、韓国は主にうるち米で餅を作る。
二番目に、満洲族の餃子である「チューボーボー(煮〇〇、〇は「食」偏に「孛」を合わせた繁体字の発音「ボー」)」の影響だ。朝鮮末期に松餅を表記する漢字表記は「松餅」とともに「松ボー」「葉ボー」「葉子ボー」「葉子ボーボー」が使われた。「ボーボー」は満洲族固有の言葉で粉食を総称するが、餃子を意味する場合もある。モンゴル族や女真族は餃子を扁食(ビェンシー)と呼んだ。今の延辺では松餅を扁食の中国発音である「ピェンセ」と呼ぶ。松餅は餃子と似た半月形だ。小麦で作った中国北方の餃子がうるち米の文化圏である韓国に渡って形は残り皮が変わったとみられる。
だが、松餅は確かに韓国人の創作物だ。朝鮮純祖(スンジョ)時代、中国燕京(現在の北京)に行ってきた記録『薊山紀程』(1803)に「高麗餅はすなわち松餅だ。高麗堡で売るものだが、わが国の餅をまねて作ったので高麗餅と呼ぶ」という一節が登場する。丙子の乱の時、清国に連れ去られた遊民が手放せなかった故郷・高麗の餅がまさに松餅だ。松餅はうるち米を食べて生きてきた韓国人の情緒が入った骨であり肉だ。
パク・ジョンべ/料理評論家
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