青瓦台前のデモを始めた時、彼に許された場所は遠く離れた清雲洞(チョンウンドン)事務所の前だった。
「警察を訪ねて行ってこう言いました。私は、33歳で戦死したあなたがたの大先輩警察の息子だと。警察庁長官が授与した遺族記章1号を有している護国英霊の子孫だと。青瓦台まで私の声を届けなければならないので、場所を移してほしいと」
警察の配慮で3回目のデモから青瓦台サランチェ横にデモ場所を移すことができた。ところが昨年のことだった。チョン・グァンフン牧師デモ隊がまさにその場所を占拠し、徹夜の座り込みに入っているではないか。
「相手と私の間にひと悶着ありました。私のデモを邪魔する牧師のマイクを奪い取って投げると、そちら側のデモ隊がわっと駆け寄ってきます。年老いた私には方法がありません。手の甲の皮がむけて血が出て、体にも傷を負って。結局、警察が仲裁に出ました。この人の時間だけはあなたたちが中断しろと」
彼は青瓦台に対して「この強盗らめ、泥棒らめ!」。激しい言葉もはばからない。「お前たちが父の魂を売り飛ばしたんじゃないか!」
「悪口、ちゃんと聞いています」。青瓦台職員が笑って挨拶をする間柄になった。「韓国は泥棒野郎で、日本は臓物売買人だ!」この発言をもう少し穏便なものにできないかと言われたが、彼はむしろデモ装備を格上げしたと語った。
父親のこと考えると今も涙がにじむ今日、戦争と分断で父親を失った悲劇も時間と共に流れて75年。自分は年を取り4男1女の子どもたちが育った。夢も期待も共に育ち、15人の孫に恵まれた。次男の娘が息子を産んで曽孫子を見ることもできた。今年は遅く結婚した長男の一人娘がソウル大学経営学科に入学して祖父を喜ばせた。
今は娘と一緒にアパートで暮らし、老夫婦は友人のように過ごしているという。「お母さんと一緒に仲良く遊んで暮せばいいのに、その年齢で何のデモか」と言って小遣いを打ち切った息子もいるといった。
「あきれるのは、請求権資金無償3億ドルが日帝被害者のものだと扇動した某弁護士が、2018年10月30日強制徴用大法院判決以降、その金は経済協力資金であり被害補償金ではないと言ったことです。某教授は、韓国政府も、支援を受けた企業も補償する責任がないといいます。私はこのような人々が私たち日帝被害者を分裂させる偽装活動家だと考えます。補償運動の障害物です」
強制動員被害者の遺族で、南北分断の悲劇の中で戦死した谷城(コクソン)警察署警衛の息子として、17歳で母親まで失った長男として2人の弟を見守り3重苦の人生を耐えてここまできた。しかし頭を下げることも、躊躇することもなかった。踏まれれば再び立ち上がり、殴られればもっと声を出して「響く鐘の音」となり生きてきた。その歳月ももう消失点を成し、背中の後ろ彼方に延びている。終わりのない抵抗の中で生きてきた日々が80歳の彼の肩に腕章のように光っている。
「私は息絶えるその日までやる覚悟です。最後には国家の補償を手にすることでしょう」。彼が残りの人生をどのように生きていくか、それは情熱と根気、そして賢明さ次第ではなかろうか。私と別れて帰っていく彼の年齢を感じさせない後ろ姿をいつまでも見送った。彼が成し遂げようとしていることが、強制動員犠牲者とその遺族が75年間渇望してきた解決の糸口の一筋でも見つかるように願いながら。
※編集者の言葉
「あっちが朝鮮だ」
作家ハン・スサンの小説『軍艦島』は日本に連行された徴用工のこの言葉から始まる。中央日報光復75周年企画「日帝強制動員、奪われた家族」は徴用工がそれほど懐かしく思った「あっちの朝鮮」に残された息子・娘の話だ。彼の小説の中で、命をかけて軍艦島脱出を試みた朝鮮人は徴用工である前に一人の父だった。27年間の調査と考証の末、軍艦島に連行された父の死闘を小説として完成させたハン・スサン氏が、残された強制動員被害者の息子・娘の生存記を中央日報に記録する。
<光復75周年-日帝強制動員、奪われた家族2>「死ぬまで叫び続けます、父の命の代償を返せと」(1)
「警察を訪ねて行ってこう言いました。私は、33歳で戦死したあなたがたの大先輩警察の息子だと。警察庁長官が授与した遺族記章1号を有している護国英霊の子孫だと。青瓦台まで私の声を届けなければならないので、場所を移してほしいと」
警察の配慮で3回目のデモから青瓦台サランチェ横にデモ場所を移すことができた。ところが昨年のことだった。チョン・グァンフン牧師デモ隊がまさにその場所を占拠し、徹夜の座り込みに入っているではないか。
「相手と私の間にひと悶着ありました。私のデモを邪魔する牧師のマイクを奪い取って投げると、そちら側のデモ隊がわっと駆け寄ってきます。年老いた私には方法がありません。手の甲の皮がむけて血が出て、体にも傷を負って。結局、警察が仲裁に出ました。この人の時間だけはあなたたちが中断しろと」
彼は青瓦台に対して「この強盗らめ、泥棒らめ!」。激しい言葉もはばからない。「お前たちが父の魂を売り飛ばしたんじゃないか!」
「悪口、ちゃんと聞いています」。青瓦台職員が笑って挨拶をする間柄になった。「韓国は泥棒野郎で、日本は臓物売買人だ!」この発言をもう少し穏便なものにできないかと言われたが、彼はむしろデモ装備を格上げしたと語った。
父親のこと考えると今も涙がにじむ今日、戦争と分断で父親を失った悲劇も時間と共に流れて75年。自分は年を取り4男1女の子どもたちが育った。夢も期待も共に育ち、15人の孫に恵まれた。次男の娘が息子を産んで曽孫子を見ることもできた。今年は遅く結婚した長男の一人娘がソウル大学経営学科に入学して祖父を喜ばせた。
今は娘と一緒にアパートで暮らし、老夫婦は友人のように過ごしているという。「お母さんと一緒に仲良く遊んで暮せばいいのに、その年齢で何のデモか」と言って小遣いを打ち切った息子もいるといった。
「あきれるのは、請求権資金無償3億ドルが日帝被害者のものだと扇動した某弁護士が、2018年10月30日強制徴用大法院判決以降、その金は経済協力資金であり被害補償金ではないと言ったことです。某教授は、韓国政府も、支援を受けた企業も補償する責任がないといいます。私はこのような人々が私たち日帝被害者を分裂させる偽装活動家だと考えます。補償運動の障害物です」
強制動員被害者の遺族で、南北分断の悲劇の中で戦死した谷城(コクソン)警察署警衛の息子として、17歳で母親まで失った長男として2人の弟を見守り3重苦の人生を耐えてここまできた。しかし頭を下げることも、躊躇することもなかった。踏まれれば再び立ち上がり、殴られればもっと声を出して「響く鐘の音」となり生きてきた。その歳月ももう消失点を成し、背中の後ろ彼方に延びている。終わりのない抵抗の中で生きてきた日々が80歳の彼の肩に腕章のように光っている。
「私は息絶えるその日までやる覚悟です。最後には国家の補償を手にすることでしょう」。彼が残りの人生をどのように生きていくか、それは情熱と根気、そして賢明さ次第ではなかろうか。私と別れて帰っていく彼の年齢を感じさせない後ろ姿をいつまでも見送った。彼が成し遂げようとしていることが、強制動員犠牲者とその遺族が75年間渇望してきた解決の糸口の一筋でも見つかるように願いながら。
※編集者の言葉
「あっちが朝鮮だ」
作家ハン・スサンの小説『軍艦島』は日本に連行された徴用工のこの言葉から始まる。中央日報光復75周年企画「日帝強制動員、奪われた家族」は徴用工がそれほど懐かしく思った「あっちの朝鮮」に残された息子・娘の話だ。彼の小説の中で、命をかけて軍艦島脱出を試みた朝鮮人は徴用工である前に一人の父だった。27年間の調査と考証の末、軍艦島に連行された父の死闘を小説として完成させたハン・スサン氏が、残された強制動員被害者の息子・娘の生存記を中央日報に記録する。
<光復75周年-日帝強制動員、奪われた家族2>「死ぬまで叫び続けます、父の命の代償を返せと」(1)
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