2018年4月10日火曜日。その人が「命をかけた」と表現する青瓦台前の抗議集会が始まった。初めての集会を火曜日に決めたのは、韓日協定が締結された日が火曜日だったからだ。デモ用に改造したトラックに上った彼がマイクを握った。
「日帝強制動員被害国民は号泣している!韓日協定請求権資金無償3億ドルは私たちの父の命の代償だ!政府は恨(ハン)が極に達した被害国民と遺族たちに3億ドルを現在の価値に換算し、今すぐ返還せよ!」
一日も欠かさず、大雨が降ろうと雪が降ろうと、毎週火曜日午前11時、青瓦台(チョンワデ、大統領府)前の集会を99回まで続けてきた彼は強制動員被害者・故キム・パンゲさんの息子キム・インソンさん(80)だ。
「私は弁が立つ人間ではありません。ですがデモが始まれば何時間でも言葉が出てきます。被害英霊が私を見守ってくれているという感じがします。ただの一度も、天気のせいでデモを中断したことがありません。だから言うのです。『見よ、英霊たちが助けてくださっているではないか』と」
あと一週間で100回を達成するという時点だった。新型コロナウイルス(新型肺炎)が猛威をふるい、都心集会禁止が下された。集会は無期限延期となるよりほかなかった。
「私の父は1942年6月に連れて行かれました。解放を迎えても便りがなかったのでみんな死んだと思っていたそうです。パプアニューギニアまで軍属として連れて行かれた父は47年に帰ってきます。密林の中でどうにか命をつないで日本に入り、貨物船に乗って韓国に密航をしましたが、農産物を積んできた船が波風によって座礁すると、3日間を海に漂うカボチャを食べて生き延びたと聞きました」
帰ってきた父親は1949年警察に入り、順天(スンチョン)警察署で最初の服務を始める。しかし、韓国戦争(朝鮮戦争)が勃発し、智異山(チリサン)白鵝山(ペクアサン)の戦いで戦死し、短い警察生活を閉じた。1951年9月21日、キム・インソンさんが11歳の時だった。
父親がいないこともわびしかったが、どこへ行っても「父なし子」と言われながら大きくなければならなかった。それだけは耐えることができず、性格が乱暴になり、荒んだ青少年期を送った17歳、今度は母親が亡くなる。祖父まで長男を失った火病で徐々に体を蝕み亡くなると、家勢が傾き始める。彼は2人の弟を世話しなければならない21歳の青年になっていた。
「あらゆる辛酸をなめました。母は生まれつき淡々とした性格でしたが、父は本当に優しかった。戻ってきた後、短い数年間、父にかわいがってもらいましたが…」
「戻ってきた父は…」と話を続けようとした瞬間、頭を下げた彼の目に涙が光った。波乱の歴史をくぐり抜けなければならなかった世代の心の奥にしまい込まれた悲痛の深さを誰が分かるだろうか。
「私は80年代初期から闘争に出ます。父は国を守って命を捧げましたが、国家は何か遺族にしてくれましたか。デモをすれば警察が地団駄を踏んでいる私たちを強制的にバスに押し込みますが、警察署に行くのではありません。遠く郊外まで乗せていってそこに私たちを置いていきます。あの時、金浦(キンポ)空港側が開発の真っ最中だったので、そこの空地に降ろし、逃げるように行ってしまいます。その時の警察はそうでした」
バス停留場も見えない乱開発の原野を力なく歩いて通り抜けながら、命を捧げて国を守り、血気盛んな若さの絶頂で散っていった父の息子だという自尊感の中で生きた。
80年代後半に法が整い、遺児手当てが支給される。その時キム・インソンさんは遺族側交渉代表として参加した。
そして強制動員補償運動の第一線に出た。彼は韓日会談に対する文書を勉強して闘争の「鎧」をつくった。彼の矛先はポスコ〔浦項(ポハン)製鉄〕だった。ポスコは韓日請求権の資金を使った代表企業だった。「血の対価で建てられた工場が失敗すれば、私たちは全員、迎日湾(ヨンイルマン)に身を投げて死ななければならない」という朴泰俊(パク・テジュン)会長の悲壮な発言も知った。
2006年4月、強制徴用被害者および遺族100人がポスコを相手取り損害賠償請求訴訟を起こす。キム・インソンさんは原告代表として参加したが敗訴した。ただし、調停に代わる判示があった。「被告人ポスコは強制動員被害者およびその遺族に対して企業の社会・倫理的責任がある」と指摘したのだ。
ポスコが責任を履行しないのでキム・インソンさんはポスコ株主総会に進入する計画を立てる。2010年2月25日、株主ではないため出席自体が不可能な株主総会の入口を彼はスーツ老紳士の謹厳な一喝で突き抜けた。発言時間を得た彼は説得力ある発言で社会的責任を促し、「政府が制度的装置を用意してくれれば快く支援する」というポスコの公式立場を引き出す。
このころ、政府は「太平洋戦争戦後国外強制動員犠牲者とその遺族らに人道的次元で慰労金などを支援」することにする。海外で死亡した者には2000万ウォン(現レートで178万円)、生還者のうち生存者には年80万ウォンの医療費が支給されることになった。
しかし生還者のうち死亡者は対象から除外された。生きて帰ってきた父親がすでに亡くなっていたキム・インソンさんはただの一銭も受け取ることができなかった。
<光復75周年-日帝強制動員、奪われた家族2>「死ぬまで叫び続けます、父の命の代償を返せと」(2)
「日帝強制動員被害国民は号泣している!韓日協定請求権資金無償3億ドルは私たちの父の命の代償だ!政府は恨(ハン)が極に達した被害国民と遺族たちに3億ドルを現在の価値に換算し、今すぐ返還せよ!」
一日も欠かさず、大雨が降ろうと雪が降ろうと、毎週火曜日午前11時、青瓦台(チョンワデ、大統領府)前の集会を99回まで続けてきた彼は強制動員被害者・故キム・パンゲさんの息子キム・インソンさん(80)だ。
「私は弁が立つ人間ではありません。ですがデモが始まれば何時間でも言葉が出てきます。被害英霊が私を見守ってくれているという感じがします。ただの一度も、天気のせいでデモを中断したことがありません。だから言うのです。『見よ、英霊たちが助けてくださっているではないか』と」
あと一週間で100回を達成するという時点だった。新型コロナウイルス(新型肺炎)が猛威をふるい、都心集会禁止が下された。集会は無期限延期となるよりほかなかった。
「私の父は1942年6月に連れて行かれました。解放を迎えても便りがなかったのでみんな死んだと思っていたそうです。パプアニューギニアまで軍属として連れて行かれた父は47年に帰ってきます。密林の中でどうにか命をつないで日本に入り、貨物船に乗って韓国に密航をしましたが、農産物を積んできた船が波風によって座礁すると、3日間を海に漂うカボチャを食べて生き延びたと聞きました」
帰ってきた父親は1949年警察に入り、順天(スンチョン)警察署で最初の服務を始める。しかし、韓国戦争(朝鮮戦争)が勃発し、智異山(チリサン)白鵝山(ペクアサン)の戦いで戦死し、短い警察生活を閉じた。1951年9月21日、キム・インソンさんが11歳の時だった。
父親がいないこともわびしかったが、どこへ行っても「父なし子」と言われながら大きくなければならなかった。それだけは耐えることができず、性格が乱暴になり、荒んだ青少年期を送った17歳、今度は母親が亡くなる。祖父まで長男を失った火病で徐々に体を蝕み亡くなると、家勢が傾き始める。彼は2人の弟を世話しなければならない21歳の青年になっていた。
「あらゆる辛酸をなめました。母は生まれつき淡々とした性格でしたが、父は本当に優しかった。戻ってきた後、短い数年間、父にかわいがってもらいましたが…」
「戻ってきた父は…」と話を続けようとした瞬間、頭を下げた彼の目に涙が光った。波乱の歴史をくぐり抜けなければならなかった世代の心の奥にしまい込まれた悲痛の深さを誰が分かるだろうか。
「私は80年代初期から闘争に出ます。父は国を守って命を捧げましたが、国家は何か遺族にしてくれましたか。デモをすれば警察が地団駄を踏んでいる私たちを強制的にバスに押し込みますが、警察署に行くのではありません。遠く郊外まで乗せていってそこに私たちを置いていきます。あの時、金浦(キンポ)空港側が開発の真っ最中だったので、そこの空地に降ろし、逃げるように行ってしまいます。その時の警察はそうでした」
バス停留場も見えない乱開発の原野を力なく歩いて通り抜けながら、命を捧げて国を守り、血気盛んな若さの絶頂で散っていった父の息子だという自尊感の中で生きた。
80年代後半に法が整い、遺児手当てが支給される。その時キム・インソンさんは遺族側交渉代表として参加した。
そして強制動員補償運動の第一線に出た。彼は韓日会談に対する文書を勉強して闘争の「鎧」をつくった。彼の矛先はポスコ〔浦項(ポハン)製鉄〕だった。ポスコは韓日請求権の資金を使った代表企業だった。「血の対価で建てられた工場が失敗すれば、私たちは全員、迎日湾(ヨンイルマン)に身を投げて死ななければならない」という朴泰俊(パク・テジュン)会長の悲壮な発言も知った。
2006年4月、強制徴用被害者および遺族100人がポスコを相手取り損害賠償請求訴訟を起こす。キム・インソンさんは原告代表として参加したが敗訴した。ただし、調停に代わる判示があった。「被告人ポスコは強制動員被害者およびその遺族に対して企業の社会・倫理的責任がある」と指摘したのだ。
ポスコが責任を履行しないのでキム・インソンさんはポスコ株主総会に進入する計画を立てる。2010年2月25日、株主ではないため出席自体が不可能な株主総会の入口を彼はスーツ老紳士の謹厳な一喝で突き抜けた。発言時間を得た彼は説得力ある発言で社会的責任を促し、「政府が制度的装置を用意してくれれば快く支援する」というポスコの公式立場を引き出す。
このころ、政府は「太平洋戦争戦後国外強制動員犠牲者とその遺族らに人道的次元で慰労金などを支援」することにする。海外で死亡した者には2000万ウォン(現レートで178万円)、生還者のうち生存者には年80万ウォンの医療費が支給されることになった。
しかし生還者のうち死亡者は対象から除外された。生きて帰ってきた父親がすでに亡くなっていたキム・インソンさんはただの一銭も受け取ることができなかった。
<光復75周年-日帝強制動員、奪われた家族2>「死ぬまで叫び続けます、父の命の代償を返せと」(2)
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