北朝鮮粛川郡出身のイ・スダンさんは「ヒトミ」という日本式の名前で恥辱を受け、中国人「リ・ポンウィン」として人生を終えた。子どもを持つことができなかったイさんは晩年にアルツハイマーと統合失調症が重なり、赤ちゃんの人形を抱きながら過ごした。イさんは人形に「私と一緒に住もう」と話したりした。[写真 安世鴻]
著者の安世鴻(アン・セホン)は写真に話を加えた。おばあさん21人が直接体験した話だ。まさに第2次世界大戦当時、日本軍に「強姦」された女性の話だ。おばあさんの国籍は日帝が侵略した韓国・中国・フィリピン・インドネシア・東ティモールなどアジア地域だ。特にインドネシア・フィリピン・東ティモール出身のおばあさんが住む所はほとんどがその国の奥地だった。日本軍はここまで入ってきて銃刀で脅し、数え年で12歳(小学校5年生にすぎない)の少女まで蹂躪した。連合軍の反撃で補給が途絶え、「突撃一番」と呼ばれたコンドームの配給が中断した。すると日本軍は妊娠しないというあきれた理由で生理が始まっていない幼い少女を性的奴隷に動員した。
道を歩いていて、家に1人でいて、両親とともにいても強制的に連れて行かれた。両親を殺すと脅され(東ティモール)、1歳の幼い娘が殺されるかと思って(中国)、されるがままになった。日本刀で太ももを刺され(インドネシア)、振り回した刃物で耳を切られた(フィリピン)。「私は犬や馬とまったく同じでした」(東ティモール)という話のようにおばあさんは一種の戦利品として生きた。
終戦後おばあさんたちにとって隣人の蔑視はまた別の苦痛だった。イスラム文化圏であるインドネシアのおばあさんは名誉殺人が恐ろしく父親の死去後に日本軍に被害を受けたことを話した。中国のおばあさんは3カ月ぶりに日本軍の子を身ごもったが逃げられた。村の人たちは生まれた息子を日本軍の子どもとあざ笑い、結局息子も1人で生きるほかはなかった。しっかりとした被害補償を受けられなかったおばあさんは「私はこのことは日本だけの問題ではないと考えます。中国政府がさらに問題です」と話す。まだ被害はそのまま個人の問題として残された。
安世鴻は1996年から日本軍性的奴隷被害者に注目し写真で記録活動を始めた。25年間にわたりアジア5カ国出身の日本軍性的奴隷被害者140人に会った。2012年に日本のニコンサロンで『重重 中国に残された朝鮮人元日本軍「慰安婦」の女性たち』という写真展を準備中に一方的に中止に追い込まれた。裁判を通じて展示会は開かれたが、各種規制を受けた。その後新聞雑誌を通じてイシュー化され、日本で30回以上展示をした。安世鴻は韓国と中国の被害女性にだけ言及し、東南アジアの被害は多くの日本人が知らないと話した。これにより国際社会で韓日間の感情的歴史問題と見る弊害ができた。全アジアの問題として解決していくためにも各国の被害者の声が消える前に記録され知らされなければならないと話す。
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