サムスンSDIが1日で創立50周年を迎えた。1970年にテレビ用ブラウン管から始まり、1980年代にはディスプレー、1990年代後半からはバッテリーへと主力事業を変えていき「50年以上存続する企業」に名前を上げた。現在電気自動車バッテリー市場で世界5位のサムスンSDIは、「超格差技術中心会社」を掲げ新たな50年を準備している。
サムスンSDIはこの日、器興(キフン)事業所で全永鉉(チョン・ヨンヒョン)社長と役員社員100人ほどが集まり創立50周年記念式を行った。全社長は創立記念演説で「次世代だけでなく次々世代のバッテリーまで念頭に置き超格差技術中心の新しい50年を作ろう」と強調した。この日の記念式は新型コロナウイルス予防のため出席人数を最小化し、多くの役員社員はテレビで視聴する方式で行われた。
◇「ブラウン管テレビ国産化しよう」1970年創立
サムスンSDIは1970年にサムスンと日本電気(NEC)の合弁会社である「サムスンNEC株式会社」が前身だ。サムスン創業者である李秉チョル(イ・ビョンチョル)会長(故人)は「ブラウン管テレビを国産化すべき」という目標を掲げ、1974年に独資営業権を確保してサムスン電管に名前を変えた。1980年代にはカラーブラウン管を年間1000万台生産し世界1位となった。ブラウン管テレビ時代が終わり薄型テレビ時代が開かれると、サムスン電管は液晶パネル(LCD)、プラズマパネル(PDP)などのディスプレーに主力事業を変えた。
1990年代に入りサムスン電管は転換点を迎える。まずグループ次元の事業構造調整を通じ、1993年に液晶事業部をサムスン電子に、その後次世代ディスプレーに選ばれたAM型有機ELは2009年にサムスンディスプレーの前身であるサムスンモバイルディスプレーに移譲した。液晶パネルより電力消費量が多い弱点があったプラズマパネルからは2014年に完全に撤退した。
◇1990年代後半「未来バッテリー時代準備」
サムスン電管はディスプレーに代わる成長動力として1990年代後半にリチウムイオンバッテリー開発に着手した。特に李健熙(イ・ゴンヒ)会長は1997年の通貨危機の中でも2000億ウォンを超える投資を敢行しバッテリー時代に備えた。1999年末には現在のサムスンSDIに社名を変更した。サムスンSDIは1998年に世界最高容量のリチウムイオンバッテリー開発を始め、2010年には小型バッテリー市場で世界シェア1位達成など成長街道をひた走った。
だがサムスンSDIは2016年に「ギャラクシーノート」のバッテリー爆発問題で創立以来最大の危機を迎える。「ギャラクシーノート7」に使われたサムスンSDI製バッテリーが爆発事故の原因と名指しされ信頼度に大きな打撃を受けた。昨年には全国でエネルギー貯蔵装置(ESS)の火災事故が相次ぎ、バッテリー業界が改めて危機を迎えた。これに対してサムスンSDIは2000億ウォン以上を投資してESSバッテリーに特殊消火システムを導入するなど安全対策を確保して危機を克服した。
サムスンSDIは2000年代初めからは電気自動車用とESS用など中大型バッテリー中心に事業転換を推進してきた。その結果BMWをはじめフォルクスワーゲンなどの車にサムスンSDIのバッテリーが搭載されている。エネルギー市場調査会社のSNEリサーチによると、サムスンSDIは1~4月に電気自動車用バッテリー市場でシェア5.6%となり世界5位に上がった。
◇2020年「夢の技術、全固体電池」に挑戦
サムスンSDIは最近では次世代バッテリーに挙げられる全固体電池技術で注目されている。全固体電池は1回の充電で800キロメートル走行し1000回以上再充電できる夢の技術だ。全固体電池は特に李在鎔(イ・ジェヨン)副会長が第4次産業革命時代の重要な収益源とみて強力に推進しているという。
李副会長は5月にサムスンSDI事業所で現代自動車グループの鄭義宣(チョン・ウィソン)首席副会長を招いて全固体電池技術を説明し、両社の協力案を模索したりもした。サムスンSDIは全固体電池の安全性と寿命を工場させると同時にこれまでよりバッテリー負極の厚さを薄くしてエネルギー密度を高める「析出型リチウム負極技術」を開発した状態だ。
サムスンSDIはこの日、器興(キフン)事業所で全永鉉(チョン・ヨンヒョン)社長と役員社員100人ほどが集まり創立50周年記念式を行った。全社長は創立記念演説で「次世代だけでなく次々世代のバッテリーまで念頭に置き超格差技術中心の新しい50年を作ろう」と強調した。この日の記念式は新型コロナウイルス予防のため出席人数を最小化し、多くの役員社員はテレビで視聴する方式で行われた。
◇「ブラウン管テレビ国産化しよう」1970年創立
サムスンSDIは1970年にサムスンと日本電気(NEC)の合弁会社である「サムスンNEC株式会社」が前身だ。サムスン創業者である李秉チョル(イ・ビョンチョル)会長(故人)は「ブラウン管テレビを国産化すべき」という目標を掲げ、1974年に独資営業権を確保してサムスン電管に名前を変えた。1980年代にはカラーブラウン管を年間1000万台生産し世界1位となった。ブラウン管テレビ時代が終わり薄型テレビ時代が開かれると、サムスン電管は液晶パネル(LCD)、プラズマパネル(PDP)などのディスプレーに主力事業を変えた。
1990年代に入りサムスン電管は転換点を迎える。まずグループ次元の事業構造調整を通じ、1993年に液晶事業部をサムスン電子に、その後次世代ディスプレーに選ばれたAM型有機ELは2009年にサムスンディスプレーの前身であるサムスンモバイルディスプレーに移譲した。液晶パネルより電力消費量が多い弱点があったプラズマパネルからは2014年に完全に撤退した。
◇1990年代後半「未来バッテリー時代準備」
サムスン電管はディスプレーに代わる成長動力として1990年代後半にリチウムイオンバッテリー開発に着手した。特に李健熙(イ・ゴンヒ)会長は1997年の通貨危機の中でも2000億ウォンを超える投資を敢行しバッテリー時代に備えた。1999年末には現在のサムスンSDIに社名を変更した。サムスンSDIは1998年に世界最高容量のリチウムイオンバッテリー開発を始め、2010年には小型バッテリー市場で世界シェア1位達成など成長街道をひた走った。
だがサムスンSDIは2016年に「ギャラクシーノート」のバッテリー爆発問題で創立以来最大の危機を迎える。「ギャラクシーノート7」に使われたサムスンSDI製バッテリーが爆発事故の原因と名指しされ信頼度に大きな打撃を受けた。昨年には全国でエネルギー貯蔵装置(ESS)の火災事故が相次ぎ、バッテリー業界が改めて危機を迎えた。これに対してサムスンSDIは2000億ウォン以上を投資してESSバッテリーに特殊消火システムを導入するなど安全対策を確保して危機を克服した。
サムスンSDIは2000年代初めからは電気自動車用とESS用など中大型バッテリー中心に事業転換を推進してきた。その結果BMWをはじめフォルクスワーゲンなどの車にサムスンSDIのバッテリーが搭載されている。エネルギー市場調査会社のSNEリサーチによると、サムスンSDIは1~4月に電気自動車用バッテリー市場でシェア5.6%となり世界5位に上がった。
◇2020年「夢の技術、全固体電池」に挑戦
サムスンSDIは最近では次世代バッテリーに挙げられる全固体電池技術で注目されている。全固体電池は1回の充電で800キロメートル走行し1000回以上再充電できる夢の技術だ。全固体電池は特に李在鎔(イ・ジェヨン)副会長が第4次産業革命時代の重要な収益源とみて強力に推進しているという。
李副会長は5月にサムスンSDI事業所で現代自動車グループの鄭義宣(チョン・ウィソン)首席副会長を招いて全固体電池技術を説明し、両社の協力案を模索したりもした。サムスンSDIは全固体電池の安全性と寿命を工場させると同時にこれまでよりバッテリー負極の厚さを薄くしてエネルギー密度を高める「析出型リチウム負極技術」を開発した状態だ。
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