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【コラム】大韓民国は戦争英雄をどう送るのか(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

1950年の平壌(ピョンヤン)入城直前にミルバーン米第1軍団長に作戦を説明する白将軍。[中央フォト]

「他のところでは護国英霊という言葉を使いますが、ここでは救国英霊と表現します」。

慶尚北道漆谷郡(チルゴクグン)の多富洞(タブドン)戦跡記念館で会ったシン・スルウ館長が無名勇士の遺骨が埋められた墓を指しながらこう語った。1950年の多富洞戦闘で勝利して韓国戦争(朝鮮戦争)の流れを変えたことで、地図上から永遠に消えるところだった大韓民国を救ったという意味だと、シン館長は強調した。8月1日から9月24日まで55日間続いた激しい戦闘で多富洞が占領されていれば、洛東江(ナクトンガン)防御ラインが壊滅し、釜山(プサン)まで北朝鮮軍の支配下に入るのは時間の問題だった。

装備と兵力ともに衆寡不敵でどれほど持ちこたえるかがカギだった戦いに勝って北上する手綱を引いた名将が、当時の第1師団長だった白善ヨプ(ペク・ソンヨプ)将軍だ。兵士より前に立ちながら「私が退けば私を撃て」と士気を高めた。米陸軍士官学校の教材にも登場し、2017年まで毎年、日本陸上自衛隊幹部候補生400人が多富洞戦跡地を踏査するなど世界戦史の1ページを飾った戦闘だ。白善ヨプ氏は韓国戦争中の▼最初の平壌(ピョンヤン)入城▼ソウル再奪還▼31歳最年少参謀総長▼韓国軍初大将進級--など多くの記録を持つ「生きた伝説」だ。満100歳の白善ヨプ氏は年初から入院して闘病中だ。「生きた」という修飾語を切り離さなければならない時期が近づいている。


◆白善ヨプ氏は本当に「悪らつな親日派」だったのか

朴三得(パク・サムドゥク)報勲処長は先月28日、「白善ヨプ将軍は顕忠院安置対象であり、ほかの意見は考慮しない」と明らかにした。朴処長は「ソウル顕忠院は将軍墓地が満葬であり、大田(テジョン)顕忠院に迎えることもある」と述べた。しかし「親日派」白善ヨプ氏を国立墓地に入れるべきではないという主張が与党政治家と進歩団体を中心に提起されている。共に民主党の金炳基(キム・ビョンギ)議員、李寿珍(イ・スジン)議員は国立顕忠院に埋葬された親日反民族行為者の墓を別のところに移す内容の国立墓地法改正案を発議すると明らかにした。これに関連し白善ヨプ氏の家族と親しい関係者はこのように伝えた。

「李明博(イ・ミョンバク)、朴槿恵(パク・クネ)政権当時にソウル顕忠院の国家有功者墓地に安置するという方針が内部であった。顕忠院長と共に墓地を見に行ったりもした。現政権は大田(テジョン)顕忠院の将軍墓域に安置することができるという。米国に居住中の長女を含めて家族は国の決定に従う立場だと聞いている。しかし最近、法改正の動きがあり、状況を注視している。死後に迷惑をかけてもいけないので第3の案も考慮している。昨年、家族や側近が多富洞戦跡地を訪れたのもそのような理由からだ。本人の意向を最もよく知る家族が政府と協議して最終決定すると思う」。

ペク・ソンギ漆谷郡守は「4、5年前に白将軍を訪れた時、『多富洞の近隣に土地を買っておいたところがある。戦友の魂が多富洞の山河に眠っているが、私が国立墓地に行ってもゆっくりと眠れるだろうか』と話していた。墓の問題は結局、政府と家族が決めることではないだろうか」と話した。

韓国戦争での手柄やその後の公職者としての行跡を考慮すると国立墓地が妥当だという結論だが、是非が絶えないのは「親日派」論争のためだ。若き日の白善ヨプ氏は満州で独立軍を討伐、さらには「虐殺」したという表現までがインターネット上に出ている。果たして白善ヨプ氏は具体的にどんな親日行為をしたのだろうか。筆者は日本の『満州国軍』など関連資料を調べた。大統領の直属として設置された親日反民族行為真相究明委員会が2009年に出した報告書は、白善ヨプ氏について「1941年から45年の日本敗戦当時まで日帝の実質的植民地だった満州国軍の将校として侵略戦争に協力し、特に抗日勢力を無力弾圧する朝鮮人特殊部隊の間島(カンド)特設隊の将校として日帝の侵略戦争に積極的に協力する」と記述している。

白善ヨプ氏は1940年に満州軍官学校(2年制)に入り、42年2月に満州国の少尉に任官され、最初の1年間は新兵訓練所の小隊長として勤務した。問題になるのは43年2月から間島特設隊で勤務した経歴のためだ。間島特設隊は満州国軍隊の中で下士官以下は全員が朝鮮人で構成され、幹部は日本人が中心だった大隊級程度の部隊だ。日帝傀儡国家の満州国は「民族協和」を掲げ、蒙古族、白系ロシア人、イスラム教徒など少数民族で構成された特別部隊を編成したが、間島特設隊もその一つだった。満州の関東軍を主軸にした抗日武装勢力討伐活動に動員された。

白善ヨプ氏が独立軍を討伐したという根拠としてよく引用される文章がある。「我々が追ったゲリラの中には多くの朝鮮人が混ざっていた。主義主張が違っても韓国人が独立を要求して戦った韓国人を討伐したものであり、日本の以夷制夷策略に陥った姿だった」(1993年、『対ゲリラ戦』日本語版)。白善ヨプ氏本人が独立軍の掃討を認めた部分としてよく引用される。しかし原文の前後をすべて読むと、別の表現が出てくる。「私が赴任した当時はすでにゲリラ活動が弱まり、巡察はあったがゲリラと交戦したことはなかった」という。白善ヨプ氏は2009年、「間島特設隊初期の同族間戦闘と犠牲について胸が痛むという思いを明らかにしただけで、自身は戦闘行為が一度もなかった」と真相究明委員会に反論文を送ったが、受け入れられなかった。

1930年代の満州の抗日ゲリラは中国共産党の指揮を受けた東北抗日連軍をいう。楊靖宇など指導部はほとんど中国人共産党員であり、この中に金日成(キム・イルソン)、崔賢(チェ・ヒョン、崔竜海最高人民会議常任委員長の父)、呉振宇(オ・ジンウ)など朝鮮人部隊が含まれていた。日帝は関東軍を主軸に討伐作戦をして楊靖宇を射殺し、その後、金日成や周保中など抗日連軍の残存勢力は1940年にロシアの領土に逃れた。したがって白善ヨプ氏が間島特設隊に赴任した1943年には満州一帯で抗日勢力が事実上消滅した状態だった。

調査委の報告書には、白善ヨプ氏が間島特設隊で活動中の1944年に満州を離れ、北京付近の密雲地方に派遣されて討伐活動に従事したと書かれている。しかし当時の討伐対象は中国共産党の八路軍であり独立軍ではない。白善ヨプ氏は当時も「小隊長として主力部隊でない単純警備任務を遂行しただけであり、本人が討伐作戦に全面参加して人命を殺傷したように言うのは、当時の状況を理解していない誤解から生じたものだ」と反論した。中国側の資料には間島特設隊が民間人残酷行為をしたという証言があるが、ここに白善ヨプ氏が加担したかは記載されていない。白善ヨプ氏の証言はむしろその反対だ。住民の民心をつかんで「友軍」とするために努力した結果、八路軍に包囲された時にも中国人住民が仲裁して交戦を避け、無事に抜け出すことができたという。

白善ヨプ氏が満州国の将校になったことで日帝に協力したことは否めない事実だ。1940年代の中国のどこかに韓半島進攻作戦の準備に汗を流す光復軍が実際に存在していたし、金俊燁(キム・ジュンヨプ)、張俊河(チャン・ジュンハ)など日本の学兵から脱出し、死線をくぐって光復軍を訪ねた若者たちもいた。


【コラム】大韓民国は戦争英雄をどう送るのか(2)

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