最近、慶尚南道晋州(チンジュ)で発見された化石が話題だ。足の指の間に水掻きがなく、尻尾があって水辺で生息していた原始ワニの化石だ。欧州だけで報告されていた原始ワニ「クロコダイルロポドゥス(crocodylopodus) 」がアジアで初めて発見された事例という。古生物学分野で学術的な意義が大きい。原始ワニが韓半島(朝鮮半島)と欧州でともに生息したいたというのが興味深い。
韓半島と欧州はいつから世界になったのか。ガラスの世界史は一つのヒントを与える。東ローマとササン朝ペルシャの平和を背景にローマガラスが東進し、新羅の皇南大塚からもガラスの容器が発見された。ところがユーラシア大陸の東端と西端にある両地域がお互いを知るには多くの時間がかかった。大陸の両端が東西交流の世界史から外れているわけではなかったが、相互認識の増進のためには多くの努力が必要だった。
欧州人の韓半島認識で里程標となった文献は『モンゴル帝国旅行記』ではないだろうか。著者ウィリアム・ルブルックは1254年にモンゴルの宮廷でソランガ(Solanga)の外交使節に会ったが、ソランガの人々は体格が小さくて肌が黒く冠をかぶっていると記録した。ルブルックはカウリの話も聞いたが、島国カウリは冬には周辺の海が凍ってタタール人の侵略を受け、平和の代償として毎年莫大な金銀を貢ぐと記録した。ソランガとカウリは過去のモンゴルで高麗を表す言葉だった。
◆新羅皇南大塚から出土したローマガラスの容器
ルブルックは高麗を訪問したわけではなかった。モンゴル帝国で得た見聞を記録しただけだ。その後も欧州人が韓半島に関する知識を得るところは韓半島と隣接した地域だった。オランダの東インド会社の商人は長崎貿易館で丙子胡乱直後の朝鮮情勢を分析した報告書を書いた。仏イエズス会の神父は中国康熙帝と共に満州旅行に出発し、国境の山岳地帯から朝鮮を眺め、中国の地図を制作する過程で朝鮮を記録した。日本と中国から眺めた朝鮮だった。
韓半島を実際に体験した欧州人がいないわけではなかった。オランダ人のハメルが朝鮮に13年間抑留された後、脱出してジャワ島のバタヴィア総督に提出した報告書が、1668年にオランダで出版された。『ハメル漂流記』というこの本は、フランス・ドイツ・英国でも翻訳されて韓半島に関する知識の広がりに寄与した。ところが、地形が険しく猛獣が多い閉鎖的な地域というイメージを定着させた。版本によってはワニの挿し絵と共に子どもを捕まえて食べるワニの話もあった。今年を予想して白亜紀の原始ワニから朝鮮ワニを想像したのだろうか。
開港後に朝鮮に訪ねてきた西洋人もエキゾチック(?)な朝鮮を伝達しようという衝動から抜け出せなかったようだ。各種見聞記で朝鮮に関する誤った印象、誤った情報を伝えることが多かった。朝鮮で数年間滞在して朝鮮の歴史や文化を深く研究した米国の宣教師ホーマー・ハルバートは、西洋人の朝鮮見聞記に多くの問題点があると感じた。西洋人が朝鮮について書いた本も少ないが、それさえも朝鮮に関する正しい事実を伝えていないことを残念に思った。
ハルバートが1895年に英語の雑誌『The Korean Repository』に寄稿した、『コリア、あるいはチョソン-静かな朝の国』(英国人サベッジ・ランドー)に対する書評には、彼の観点がよく表れている。朝鮮は真夏にも雪が降る。朝鮮人はアフリカの黒人ほど肌の色が黒い。朝鮮の都城には毎晩、猛獣が入ってくる。朝鮮人は洗濯しながら服を棒でたたく。彼はこのように事実関係を確認せずに書く習慣を叱責した。暑い真夏の真昼にシエスタのように昼寝をする光景を見て、韓国人の怠惰を論じる西洋人の未熟な印象批評も校正対象だった。
ハルバートが1901年に発刊した英文雑誌『The Korea Review』(韓国評論)は「レビュー」という言葉にふさわしく当時の韓国に関する知識の正誤を問いただす評論活動を積極的に遂行した月刊誌だった。韓国に関する見聞知識だけでなく歴史知識の評論にも注力した近代韓国学の主要発信地だった。例えば壬辰倭乱当時に日本人が朝鮮で農作業をしたおかげで朝鮮ではじめて稲作が始まったという日本側の主張に対し、稲作はすでに西暦紀元が始まる時から存在し、日本には朝鮮から稲作が伝わったと反論した。
【コラム】朝鮮が日本の属国? これほど啓蒙された国もないが…(2)
韓半島と欧州はいつから世界になったのか。ガラスの世界史は一つのヒントを与える。東ローマとササン朝ペルシャの平和を背景にローマガラスが東進し、新羅の皇南大塚からもガラスの容器が発見された。ところがユーラシア大陸の東端と西端にある両地域がお互いを知るには多くの時間がかかった。大陸の両端が東西交流の世界史から外れているわけではなかったが、相互認識の増進のためには多くの努力が必要だった。
欧州人の韓半島認識で里程標となった文献は『モンゴル帝国旅行記』ではないだろうか。著者ウィリアム・ルブルックは1254年にモンゴルの宮廷でソランガ(Solanga)の外交使節に会ったが、ソランガの人々は体格が小さくて肌が黒く冠をかぶっていると記録した。ルブルックはカウリの話も聞いたが、島国カウリは冬には周辺の海が凍ってタタール人の侵略を受け、平和の代償として毎年莫大な金銀を貢ぐと記録した。ソランガとカウリは過去のモンゴルで高麗を表す言葉だった。
◆新羅皇南大塚から出土したローマガラスの容器
ルブルックは高麗を訪問したわけではなかった。モンゴル帝国で得た見聞を記録しただけだ。その後も欧州人が韓半島に関する知識を得るところは韓半島と隣接した地域だった。オランダの東インド会社の商人は長崎貿易館で丙子胡乱直後の朝鮮情勢を分析した報告書を書いた。仏イエズス会の神父は中国康熙帝と共に満州旅行に出発し、国境の山岳地帯から朝鮮を眺め、中国の地図を制作する過程で朝鮮を記録した。日本と中国から眺めた朝鮮だった。
韓半島を実際に体験した欧州人がいないわけではなかった。オランダ人のハメルが朝鮮に13年間抑留された後、脱出してジャワ島のバタヴィア総督に提出した報告書が、1668年にオランダで出版された。『ハメル漂流記』というこの本は、フランス・ドイツ・英国でも翻訳されて韓半島に関する知識の広がりに寄与した。ところが、地形が険しく猛獣が多い閉鎖的な地域というイメージを定着させた。版本によってはワニの挿し絵と共に子どもを捕まえて食べるワニの話もあった。今年を予想して白亜紀の原始ワニから朝鮮ワニを想像したのだろうか。
開港後に朝鮮に訪ねてきた西洋人もエキゾチック(?)な朝鮮を伝達しようという衝動から抜け出せなかったようだ。各種見聞記で朝鮮に関する誤った印象、誤った情報を伝えることが多かった。朝鮮で数年間滞在して朝鮮の歴史や文化を深く研究した米国の宣教師ホーマー・ハルバートは、西洋人の朝鮮見聞記に多くの問題点があると感じた。西洋人が朝鮮について書いた本も少ないが、それさえも朝鮮に関する正しい事実を伝えていないことを残念に思った。
ハルバートが1895年に英語の雑誌『The Korean Repository』に寄稿した、『コリア、あるいはチョソン-静かな朝の国』(英国人サベッジ・ランドー)に対する書評には、彼の観点がよく表れている。朝鮮は真夏にも雪が降る。朝鮮人はアフリカの黒人ほど肌の色が黒い。朝鮮の都城には毎晩、猛獣が入ってくる。朝鮮人は洗濯しながら服を棒でたたく。彼はこのように事実関係を確認せずに書く習慣を叱責した。暑い真夏の真昼にシエスタのように昼寝をする光景を見て、韓国人の怠惰を論じる西洋人の未熟な印象批評も校正対象だった。
ハルバートが1901年に発刊した英文雑誌『The Korea Review』(韓国評論)は「レビュー」という言葉にふさわしく当時の韓国に関する知識の正誤を問いただす評論活動を積極的に遂行した月刊誌だった。韓国に関する見聞知識だけでなく歴史知識の評論にも注力した近代韓国学の主要発信地だった。例えば壬辰倭乱当時に日本人が朝鮮で農作業をしたおかげで朝鮮ではじめて稲作が始まったという日本側の主張に対し、稲作はすでに西暦紀元が始まる時から存在し、日本には朝鮮から稲作が伝わったと反論した。
【コラム】朝鮮が日本の属国? これほど啓蒙された国もないが…(2)
この記事を読んで…