私たちは事故の原因が事態の原因だと考える傾向がある。事故の原因が謎に満ち刺激的であればあるほどだ。信じられない事故の原因と信じられない事態の現象がペアをなしているように見えるからだ。まだ進行中の新型コロナウイルス感染症(コロナ19)事態がその例だ。
多くの人々とメディアがいまだに最初の発病原因に関して語っている。だが、ここまで事態が多くなった原因は明らかだ。ウイルス伝播を初動鎮圧することができなかったためだ。中国政府が事故を統制して収拾できなかったために、アジアの全国家が人材と費用を投じて統制して収拾しなければならない事態になってしまった。先月26日の中国政府の発表はそれを如実に示したものだった。最も多くの人々が感染し、死亡者も続出していたが、当局の発表では何も確信することはできず、どのような意志も見出だせなかった。ウイルスに対する対応無策の失敗を告白し、アジア全域に対して「赤い警告灯」をつける場にすぎなかった。
その場面を見て思い出したのは米国ドラマ『チェルノブイリ』だった。ドラマは夜空を真っ二つに分ける謎の閃光から始まる。
遠く黒い森の向こう側、原子力発電所の核反応炉から轟音と共に空に向かって真っ直ぐ伸びる明るい光の柱。住民たちは発電所に火災が起こったと知るだけで、その火災がどのような火災なのか説明を聞くことも避難命令を受けることもできない。事故を起こした発電所の最高責任者は爆発が広がったその現場においてすら爆発を否定する。起きるはずのない爆発なので起きるはずがないと話しながら部下職員を叱責する。最初の報告を受ける市長と市委員会も同様だ。簡易放射能測定器の限界値を実際の放射能流出量として片付けたまま、爆発事故を縮小して隠蔽することで合意する。そのせいで住民たちはとてつもない爆発が発生したというのに、36時間過ぎてようやく避難命令を受け、ほぼ身一つで都市を離れるバスに乗り込むことになる。これさえも、モスクワの核物理学者が国家首脳部会議で反対と危険を顧みずに事態の真相を直接報告したためだ。
その後の統制と収拾は、ことあるごとに人の命を代償に求める。だが、これさえも効率的にはいかない。やはり官僚のせいだ。それを端的に示す事件が、核反応炉周辺の破片を片付ける作業でだ。被害と危険を最小化するために現場担当者は月探査に使うロボットを利用しようと建議する。政府も素直にこれを受け入れる。だが、西ドイツでから調達してきたロボットは現場に投じてすぐに故障して止まってしまう。政府が西ドイツに強力を求めた当時、放射能流出量の数値を小さくして報告していたためだ。結局、兵士たちが粗末な保護服を着たままその作業に駆り出される羽目になる。
ドラマは始終一貫して凄惨だ。権限と責任はあるが、傲慢と無知で無能力な官僚は的を外した対策で空回りばかりだ。反面、権限も責任もないが良心と勇気ある人々がやるべきことをする。それが業で、その業をやり遂げなければさらに多くの人々が理由もなく巻き込まれてしまうからだ。ドラマの最も美しく崇高な場面はそのようにして作られる。反応炉の追加爆発を防ぐための作業に原発労働者3人が志願する時、事故と関係もなく後で補償も受けられなかった鉱夫が汚染の拡散を防ぐために反応炉の下に入って裸でトンネルの穴を掘る時、核物理学者が自身の将来と自由をあきらめて事態の真実を明らかにして命をかけてその真実をやっと届け伝えた時。
その美しさと崇高さはドラマだけにとどまらない。今、私たちが病院と武漢領事館で、海外同胞を乗せてきたチャーター機と牙山(アサン)・鎮川(ジンチョン)で目撃していることだ。同じようにその傲慢と無知も、中国と日本の納得しがたい対処で私たちがこの目で見ていることだ。だが、それは2015年中東呼吸器症候群(MERS)事態の時、私たちがここですでに体験したことでもある。私たちもまた失敗を経験したので、今ではその失敗の意味ははっきりと見える。失敗は国家や民族も任命職と選出職、体制を問わない。失敗は官僚が傲慢で無知な時に起きる。権力を守って陣営を保全しようとして、官僚が真実から目を反らす時、自分たちの権力と権限でその傲慢と無知を隠そうとウソを示している時。
幸い、今私たちの対処はある程度成功しているように見える。そのために私たちはもっと失敗の可能性を念頭に置くべきではないだろうか。『チェルノブイリ』はこのようなセリフで締めくくる。「かつて真実の代償を恐れた私は問う。ウソの代償は? と」
イ・ヒョクチン/小説家
多くの人々とメディアがいまだに最初の発病原因に関して語っている。だが、ここまで事態が多くなった原因は明らかだ。ウイルス伝播を初動鎮圧することができなかったためだ。中国政府が事故を統制して収拾できなかったために、アジアの全国家が人材と費用を投じて統制して収拾しなければならない事態になってしまった。先月26日の中国政府の発表はそれを如実に示したものだった。最も多くの人々が感染し、死亡者も続出していたが、当局の発表では何も確信することはできず、どのような意志も見出だせなかった。ウイルスに対する対応無策の失敗を告白し、アジア全域に対して「赤い警告灯」をつける場にすぎなかった。
その場面を見て思い出したのは米国ドラマ『チェルノブイリ』だった。ドラマは夜空を真っ二つに分ける謎の閃光から始まる。
遠く黒い森の向こう側、原子力発電所の核反応炉から轟音と共に空に向かって真っ直ぐ伸びる明るい光の柱。住民たちは発電所に火災が起こったと知るだけで、その火災がどのような火災なのか説明を聞くことも避難命令を受けることもできない。事故を起こした発電所の最高責任者は爆発が広がったその現場においてすら爆発を否定する。起きるはずのない爆発なので起きるはずがないと話しながら部下職員を叱責する。最初の報告を受ける市長と市委員会も同様だ。簡易放射能測定器の限界値を実際の放射能流出量として片付けたまま、爆発事故を縮小して隠蔽することで合意する。そのせいで住民たちはとてつもない爆発が発生したというのに、36時間過ぎてようやく避難命令を受け、ほぼ身一つで都市を離れるバスに乗り込むことになる。これさえも、モスクワの核物理学者が国家首脳部会議で反対と危険を顧みずに事態の真相を直接報告したためだ。
その後の統制と収拾は、ことあるごとに人の命を代償に求める。だが、これさえも効率的にはいかない。やはり官僚のせいだ。それを端的に示す事件が、核反応炉周辺の破片を片付ける作業でだ。被害と危険を最小化するために現場担当者は月探査に使うロボットを利用しようと建議する。政府も素直にこれを受け入れる。だが、西ドイツでから調達してきたロボットは現場に投じてすぐに故障して止まってしまう。政府が西ドイツに強力を求めた当時、放射能流出量の数値を小さくして報告していたためだ。結局、兵士たちが粗末な保護服を着たままその作業に駆り出される羽目になる。
ドラマは始終一貫して凄惨だ。権限と責任はあるが、傲慢と無知で無能力な官僚は的を外した対策で空回りばかりだ。反面、権限も責任もないが良心と勇気ある人々がやるべきことをする。それが業で、その業をやり遂げなければさらに多くの人々が理由もなく巻き込まれてしまうからだ。ドラマの最も美しく崇高な場面はそのようにして作られる。反応炉の追加爆発を防ぐための作業に原発労働者3人が志願する時、事故と関係もなく後で補償も受けられなかった鉱夫が汚染の拡散を防ぐために反応炉の下に入って裸でトンネルの穴を掘る時、核物理学者が自身の将来と自由をあきらめて事態の真実を明らかにして命をかけてその真実をやっと届け伝えた時。
その美しさと崇高さはドラマだけにとどまらない。今、私たちが病院と武漢領事館で、海外同胞を乗せてきたチャーター機と牙山(アサン)・鎮川(ジンチョン)で目撃していることだ。同じようにその傲慢と無知も、中国と日本の納得しがたい対処で私たちがこの目で見ていることだ。だが、それは2015年中東呼吸器症候群(MERS)事態の時、私たちがここですでに体験したことでもある。私たちもまた失敗を経験したので、今ではその失敗の意味ははっきりと見える。失敗は国家や民族も任命職と選出職、体制を問わない。失敗は官僚が傲慢で無知な時に起きる。権力を守って陣営を保全しようとして、官僚が真実から目を反らす時、自分たちの権力と権限でその傲慢と無知を隠そうとウソを示している時。
幸い、今私たちの対処はある程度成功しているように見える。そのために私たちはもっと失敗の可能性を念頭に置くべきではないだろうか。『チェルノブイリ』はこのようなセリフで締めくくる。「かつて真実の代償を恐れた私は問う。ウソの代償は? と」
イ・ヒョクチン/小説家
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