仁川市弥鄒忽区は「南区」という地名に地域の特色がないという指摘を受け、2018年7月から「弥鄒忽区」に変更した。[写真 弥鄒忽区]
京畿地域の邑・面・洞の40%が「一竹面」のように日帝強占期当時変更された地名を今まで使っていることが分かった。日本が韓国人固有の情緒と意識を抹殺するために推進した創氏改名(日本式姓と名前を持つように強要)が土地名に拡大したわけだ。いわゆる「創地改名」だ。
京畿道が地名の変化を分析した結果、京畿道の398邑・面・洞の中で160カ所が日帝強占期当時日本によって名前が変更されたことが確認された。最も多い類型は2つの地名から一文字ずつ取って合わせた「合成地名」で121カ所にもなる。代表的なところが城南市盆唐区書ヒョン洞(ソンナムシ・プンダング・ソヒョンドン)だ。旧名は遯書村(ドゥンソチョン)、陽ヒョン里(ヤンヒョンリ)、遯路洞(トンロドン)などだったが、一文字ずつ取って書ヒョン洞に変更した。水原市勧善区区雲洞(スウォンシ・クォンソング・グウンドン)、城南市盆唐区盆唐洞、龍仁市器興区新葛洞(ヨンインシ・キフング・シンガルドン)なども合成地名だ。
純粋な韓国語の地名を漢字語に変えた所もある。楊平郡楊西面両水里(ヤンピョングン・ヤンソミョン・ヤンスリ)の旧名は「ドゥムルモリ」だ。だが、日本は「ドゥ」の「2つ」という意味から「両」を、「モリ」の「頭」という意味から「首」を使って「両首里」に名付けた。
日帝時代に創氏改名を余儀なくされた町名が変わる=韓国(2)
この記事を読んで…