◇辛格浩1921~2020
辛格浩、重光武雄、ロッテグループ創業者。
19日に死去した辛格浩(シン・ギョクホ、重光武雄)ロッテグループ名誉会長は先駆的境界人だった。韓国と日本の双方でロッテという帝国を作った。激しい慶尚道(キョンサンド)なまりと母国語並みに気楽な日本語を混ぜて使った。両国で歓呼と疑いを同時に受けた。韓国人が日本で金だけ稼いで行くという嘲弄と誹謗を聞いたりもした。辛格浩の99年の人生には光と影、そしてはっきりしないグレーゾーンが共存する。
第1世代創業者の辛名誉会長は自らの手で韓国財界5位のロッテグループを作り上げた。「大韓海峡の経営者」「神格浩」などの別称を得た。最盛期には「奇数月には韓国で、偶数月には日本で」と要約されるスケジュールをこなしグループを指揮した。日本で事業家として成功すると日本国籍を取得するようにとの勧誘も多くなったが韓国国籍を変えなかった。1942年にわずか83円を持って日本に渡った彼は、48年に日本ロッテ、67年に韓国ロッテを設立した後、90社を超える系列会社、資産規模115兆ウォンに育てた。激しい叱責と几帳面さで従業員を震えさせたが、ダム建設により水没して消えた故郷の蔚山屯基里(ウルサン・トゥンギリ)の住民のために43年間毎年5月の第1日曜日に慰労会を開いたりもした人間味あふれる財界の巨人だった。
辛格浩名誉会長は1921年10月4日、霊山辛氏が集まる蔚山市蔚州郡三同面(ウルジュグン・サムドンミョン)屯基里で辛鎮洙(シン・ジンス、1973年死去)の5男5女の長男として生まれた。辛会長はあるインタビューで、「73世帯が集まって住む村で3番目の金持ちだったが、水田15マジギ(1マジギは約200坪、661平方メートル)で収穫したものを家族で食べれば少し残る程度だった」と回顧した。10~20キロメートルに及ぶ道のりを歩いて通学する情熱を見せたが、成績はそれほど良くなかった。彼は日本に行き小説家になるという夢を抱いて育った。
叔父の助けで2年制農業補習学校を卒業した彼は日本に渡った後、新聞配達や牛乳配達をしながら早稲田高等工業学校化学科を修了した。
顧客との約束を必ず守る信義誠実と特有の几帳面さはこの時から光を放った。雨が降ろうが雪が降ろうが牛乳配達の時間は正確だった。うわさが広がり集まる注文で配達時間に間に合わないからと直接アルバイトを雇用した。アルバイトがアルバイトを雇ったのだ。こうした姿に惚れ込んだ日本人が事業資金6万円を都合してくれ旋盤用オイルメーカーを始めた。
事業家の道に入り結局文学の夢は広げることができなかった。代わりに文学に対する憧憬はロッテグループの名前に残った。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が好きで、女主人公シャルロッテ(ロッテは愛称)から企業名を取った。この名付けに対する彼の自負心はすごかった。「私の一生一代最高の収穫であり選択」という言葉を残した。
辛格浩神話の始まりは風船ガムだ。48年6月、従業員10人とともに設立した企業ロッテの最初の製品は、なんと日本人が西欧の文物とし反感を見せたガムだった。お腹いっぱい食べられない時期に腹の足しにもならない菓子で成功できるかという懐疑的な見方を覆しロッテの風船ガムは並んで購入する製品の隊列に上がった。ソウル・小公洞(ソゴンドン)のロッテホテル34階、辛会長の執務室には当時販売された「ロッテグリーンガム」の写真が掛けられている。初心を忘れないという誓いだった。
その後ロッテはチョコレートとキャンディ類、氷菓類に事業領域を広げていき、日本を代表する食品メーカーとしての位置付けを確立した。ロッテは引き続き商社(1959年)、不動産(1961年)、物産(1968年)などに拡大し急成長した。88年には日本の景気好況で辛格浩名誉会長はフォーブスが選定する世界の富豪4位に上がったりもした。
83円持って日本に渡った文学青年…カバンひとつ持って帰国し韓国ロッテ設立(2)
辛格浩、重光武雄、ロッテグループ創業者。
19日に死去した辛格浩(シン・ギョクホ、重光武雄)ロッテグループ名誉会長は先駆的境界人だった。韓国と日本の双方でロッテという帝国を作った。激しい慶尚道(キョンサンド)なまりと母国語並みに気楽な日本語を混ぜて使った。両国で歓呼と疑いを同時に受けた。韓国人が日本で金だけ稼いで行くという嘲弄と誹謗を聞いたりもした。辛格浩の99年の人生には光と影、そしてはっきりしないグレーゾーンが共存する。
第1世代創業者の辛名誉会長は自らの手で韓国財界5位のロッテグループを作り上げた。「大韓海峡の経営者」「神格浩」などの別称を得た。最盛期には「奇数月には韓国で、偶数月には日本で」と要約されるスケジュールをこなしグループを指揮した。日本で事業家として成功すると日本国籍を取得するようにとの勧誘も多くなったが韓国国籍を変えなかった。1942年にわずか83円を持って日本に渡った彼は、48年に日本ロッテ、67年に韓国ロッテを設立した後、90社を超える系列会社、資産規模115兆ウォンに育てた。激しい叱責と几帳面さで従業員を震えさせたが、ダム建設により水没して消えた故郷の蔚山屯基里(ウルサン・トゥンギリ)の住民のために43年間毎年5月の第1日曜日に慰労会を開いたりもした人間味あふれる財界の巨人だった。
辛格浩名誉会長は1921年10月4日、霊山辛氏が集まる蔚山市蔚州郡三同面(ウルジュグン・サムドンミョン)屯基里で辛鎮洙(シン・ジンス、1973年死去)の5男5女の長男として生まれた。辛会長はあるインタビューで、「73世帯が集まって住む村で3番目の金持ちだったが、水田15マジギ(1マジギは約200坪、661平方メートル)で収穫したものを家族で食べれば少し残る程度だった」と回顧した。10~20キロメートルに及ぶ道のりを歩いて通学する情熱を見せたが、成績はそれほど良くなかった。彼は日本に行き小説家になるという夢を抱いて育った。
叔父の助けで2年制農業補習学校を卒業した彼は日本に渡った後、新聞配達や牛乳配達をしながら早稲田高等工業学校化学科を修了した。
顧客との約束を必ず守る信義誠実と特有の几帳面さはこの時から光を放った。雨が降ろうが雪が降ろうが牛乳配達の時間は正確だった。うわさが広がり集まる注文で配達時間に間に合わないからと直接アルバイトを雇用した。アルバイトがアルバイトを雇ったのだ。こうした姿に惚れ込んだ日本人が事業資金6万円を都合してくれ旋盤用オイルメーカーを始めた。
事業家の道に入り結局文学の夢は広げることができなかった。代わりに文学に対する憧憬はロッテグループの名前に残った。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が好きで、女主人公シャルロッテ(ロッテは愛称)から企業名を取った。この名付けに対する彼の自負心はすごかった。「私の一生一代最高の収穫であり選択」という言葉を残した。
辛格浩神話の始まりは風船ガムだ。48年6月、従業員10人とともに設立した企業ロッテの最初の製品は、なんと日本人が西欧の文物とし反感を見せたガムだった。お腹いっぱい食べられない時期に腹の足しにもならない菓子で成功できるかという懐疑的な見方を覆しロッテの風船ガムは並んで購入する製品の隊列に上がった。ソウル・小公洞(ソゴンドン)のロッテホテル34階、辛会長の執務室には当時販売された「ロッテグリーンガム」の写真が掛けられている。初心を忘れないという誓いだった。
その後ロッテはチョコレートとキャンディ類、氷菓類に事業領域を広げていき、日本を代表する食品メーカーとしての位置付けを確立した。ロッテは引き続き商社(1959年)、不動産(1961年)、物産(1968年)などに拡大し急成長した。88年には日本の景気好況で辛格浩名誉会長はフォーブスが選定する世界の富豪4位に上がったりもした。
83円持って日本に渡った文学青年…カバンひとつ持って帰国し韓国ロッテ設立(2)
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