東国(トングク)大学博物館所蔵品として今回の展示会で公開された四溟大師の真影(肖像画)。[写真 国立中央博物館]
四溟は対馬に3カ月留まった後、同年11月、日本本国へ向かった。四溟は1605年2月と3月、2度にわたって伏見城で徳川に会ったとされている。この「伏見会談」を通じて「1.日本は朝鮮を再び侵略しない。2.相互和平の象徴として通信使を交換する。3.日本に連行された被虜人を送還する。4.戦乱の中に宣陵(ソンヌン)と貞陵(チョンヌン)を盗掘した犯人を朝鮮に引き渡す」などの協議事項が導出された。
一部では「四溟が捕虜3000人余りを連れて帰ってきた」という記録も伝わっている。学界では四溟の努力以降、公式の手続きを通じて数年間にわたり送還された朝鮮人の数を合わせたと推定している。日本との国交正常化は、また別の迂余曲折を経て1607年に朝鮮が1回目の通信使を派遣することによって実現した。
今回の展示会で公開される遺墨は、当時四溟が会談を待つ間に興聖寺の僧侶に残したものなどだ。漢詩2点(「崔致遠(チェ・チウォン)の詩句」「碧瀾渡(ピョンナンド)の詩韻を借りて詠んだ詩」)と「大慧禅師の文字を見て書いた文」「僧侶円耳につけた道号」「僧侶円耳に送った手紙」など5点だ。このうち「碧瀾渡の詩韻を借りて詠んだ詩」は、高麗末の文臣・柳淑(ユスク、1324-1368)の詩「碧瀾渡」を次韻して詠んだもので、壬辰倭乱から10余年間感慨が表現されている。
詩の全文「江湖で会おうと約束してからかなり経つが/乱れた世の中で過ごしてからもう10年になる/カモメはその意味を忘れていないように/斜め斜めに楼閣前に近づく(有約江湖晩 紅塵已十年 白鴎如有意 故故近楼前)」からは、日本で任務を全うした後、俗世を整理して禅僧の本分に戻るという四溟の意志がにじみでている。また、興聖寺を創建した僧侶・円耳了然(1559~1619)に贈った道号(法号)や手紙は、彼が京都の僧侶から高く評価されていたことを表わしている。
ソヒ外交フォーラム代表であり駐スイス大使を務めたことのある張哲均氏〔同徳(トンドク)女子大招へい教授)は「四溟の禅文筆談は日本人を引きつけたソフトパワーも同然だった」としながら「西生浦・伏見会談で見せた彼の外交・交渉力は、今日の出口の見えない韓日関係にも示唆するところが大きい」と話した。
今回の展示のために来韓した興聖寺の望月宏済住職は「平和を愛した四溟大師の精神が今日の日韓関係にも大きな響きを与える」と話した。開幕式に出席した長嶺安政・駐韓日本大使は「韓日両国関係がかなり難しい状況に直面しているがこれをどのように克服するべきかにおいて、今回の展示がさまざまなことを示唆している」と話した。四溟大師の肖像画など計7点が公開された今回の展示は11月17日まで開かれている。
韓日外交400余年前の主役、四溟大師の文とその魂(1)
この記事を読んで…