自由韓国党を「親日派後えいの巣窟」と非難する与党の共に民主党だが、そちらも親日から自由でない。ナンバー2の洪永杓(ホン・ヨンピョ)院内代表からして親日派の子孫だ。彼の祖父ホン・ジョンチョルは「日帝に仕えて爵位を受けた容疑」で親日人名辞典704人の名簿に載っている。洪永杓はこの事実を認めて遺憾の意を表したことがある。おもしろいのは進歩陣営の反応だ。「民主化運動などで先祖の罪を十分に反省したので全く問題として見ない」という雰囲気だ。もし韓国党院内代表が親日派の子孫だったらどう反応しただろうか。いくら立派な活動をして保守改革に率先しても、「親日派の子孫のくせに」という非難があふれたはずだ。
「自分の場合はかまわない」の典型である民主党の親日・抗日フレームは、党の最高の大物、金大中(キム・デジュン)元大統領の熱い「親日」前歴を見れば矛盾がすぐに表れる。わずか30年前の1989年1月9日。88歳で死去した裕仁天皇の焼香所が設けられたソウル中学洞の日本大使館を訪れ、深く頭を下げる政治家がいた。当時の最大野党、平和民主党の総裁だった金大中だった。裕仁天皇は日帝の朝鮮侵略の最大の元凶だ。多くの独立活動家を拷問して死亡させ、女性を慰安婦にさせた張本人だ。島山・安昌浩(アン・チャンホ)先生は臨終しながら「「裕仁、貴様が大きな罪を犯した」という遺言を残したほどだ。
その裕仁天皇の焼香所で金大中は頭を下げて深く哀悼の意を表した。その場面は京郷新聞の写真で報道された。民主党は洪準杓(ホン・ジュンピョ)代表など韓国党の政治家が安倍首相に会った時、頭を深く下げたとして「親日派DNAはどこに向かうのか」と皮肉った。頭を下げた角度で親日かどうかを測定するのなら金大中は断然「スーパー親日派」だ。それだけでない。大統領になった後に日王を「天皇」と呼ぼうと言った政治家も金大中だった。
金大中の「親日」には歴史がある。日本政府は1980年に全斗煥(チョン・ドゥファン)が率いる新軍部の下で金大中が死刑を言い渡されると、救命運動の先鋒に立った。日本政界の水面下の実力者、瀬島隆三は判決の不当性を指摘した櫻内義雄外相の手紙を持って全斗煥に会い、「金大中氏を死刑にしてはいけない。大きな国際問題になる」と圧力を加えた。日本外務省も全斗煥第5共和国政府に「非公開の死刑判決文を見せてほしい」と執拗に要求した。判決文の問題点を見つけて不当性を国際社会に知らせようという努力だった。
さらに日本外務省は81年8月10日、「全斗煥体制は軍事ファッショ政権であり、金大中事件が解決されない中で韓国を支援するのは、その国の民主化の流れに逆行する納得できない姿勢」という公文書まで作成した。また、北朝鮮の玄峻極(ヒョン・ジュングク)労働党中央委員を東京に招いて第5共和国を刺激し、全斗煥の念願である100億ドルの借款も「金大中救命」が先決条件であることを暗示した。結局、第5共和国は米国に続いて日本のこうした全面的な攻勢に屈した。金大中を無期懲役に減刑し、米国への亡命まで認めたのだ。「金大中先生を釈放すべき」と叫んできた日本の政治家と市民団体は歓声をあげた。青瓦台(チョンワデ、大統領府)の586世代(現在50代で、80年代に大学生で民主化学生運動に参加し、60年代生まれ)は信じられないだろうが、彼らの上の世代の金大中が第5共和国の死刑を免れて民主化の主役として華麗に再起したのには日本の役割が大きかった。
金大中は日本の存在感を正確に把握して彼らと友人になろうと努力した大物だった。彼は大統領になると、保守政府が「倭色」として禁止してきた日本映画・歌謡の国内公演を大幅に認めた。これで日本の心をつかんだ後「新韓日宣言」を引き出し、日本は金大中の太陽政策を支持する核心パートナーになった。太陽政策に疑いの視線を向ける米国の心を変えるには対日関係から固めるべきという戦略が的中したのだ。
韓国人の不倶戴天の敵である裕仁天皇の焼香所を訪れて頭を下げた行為もこうした観点で眺める必要がある。金大中は裕仁天皇個人でなく日本に向かって頭を下げた。それが我々の安保と国益につながるという確信のためだったはずだ。日本の首相に頭をどの角度で下げたか、日本大使館の行事に出席したかなどで親日かどうかを判断する民主党の後輩たちを見て、金大中元大統領が墓で舌打ちをする音が聞こえそうだ。
民主党と文在寅(ムン・ジェイン)政権は大韓民国を動かす船長だ。野党時代には保守政権の「親日妄動」を糾弾すればそれまでだったが、今は国益のために精巧な対日外交をする責任が大きい。しかし過去1年半に政府がしたことを見ると、日本の悪口ばかりで行動は何もしない「NATO」(No Action Talk Only)だ。日本を国内政治のために売り飛ばし、支持率維持の道具として使うのならそうすればよい。そうするほど民主党と政府は金大中が残した偉大な韓日関係の遺産をつぶしていくだけだ。対北朝鮮政策も経済も隣国の日本と関係が弱まればいつでも致命傷になることを忘れてはいけない。
カン・チャンホ/論説委員
「自分の場合はかまわない」の典型である民主党の親日・抗日フレームは、党の最高の大物、金大中(キム・デジュン)元大統領の熱い「親日」前歴を見れば矛盾がすぐに表れる。わずか30年前の1989年1月9日。88歳で死去した裕仁天皇の焼香所が設けられたソウル中学洞の日本大使館を訪れ、深く頭を下げる政治家がいた。当時の最大野党、平和民主党の総裁だった金大中だった。裕仁天皇は日帝の朝鮮侵略の最大の元凶だ。多くの独立活動家を拷問して死亡させ、女性を慰安婦にさせた張本人だ。島山・安昌浩(アン・チャンホ)先生は臨終しながら「「裕仁、貴様が大きな罪を犯した」という遺言を残したほどだ。
その裕仁天皇の焼香所で金大中は頭を下げて深く哀悼の意を表した。その場面は京郷新聞の写真で報道された。民主党は洪準杓(ホン・ジュンピョ)代表など韓国党の政治家が安倍首相に会った時、頭を深く下げたとして「親日派DNAはどこに向かうのか」と皮肉った。頭を下げた角度で親日かどうかを測定するのなら金大中は断然「スーパー親日派」だ。それだけでない。大統領になった後に日王を「天皇」と呼ぼうと言った政治家も金大中だった。
金大中の「親日」には歴史がある。日本政府は1980年に全斗煥(チョン・ドゥファン)が率いる新軍部の下で金大中が死刑を言い渡されると、救命運動の先鋒に立った。日本政界の水面下の実力者、瀬島隆三は判決の不当性を指摘した櫻内義雄外相の手紙を持って全斗煥に会い、「金大中氏を死刑にしてはいけない。大きな国際問題になる」と圧力を加えた。日本外務省も全斗煥第5共和国政府に「非公開の死刑判決文を見せてほしい」と執拗に要求した。判決文の問題点を見つけて不当性を国際社会に知らせようという努力だった。
さらに日本外務省は81年8月10日、「全斗煥体制は軍事ファッショ政権であり、金大中事件が解決されない中で韓国を支援するのは、その国の民主化の流れに逆行する納得できない姿勢」という公文書まで作成した。また、北朝鮮の玄峻極(ヒョン・ジュングク)労働党中央委員を東京に招いて第5共和国を刺激し、全斗煥の念願である100億ドルの借款も「金大中救命」が先決条件であることを暗示した。結局、第5共和国は米国に続いて日本のこうした全面的な攻勢に屈した。金大中を無期懲役に減刑し、米国への亡命まで認めたのだ。「金大中先生を釈放すべき」と叫んできた日本の政治家と市民団体は歓声をあげた。青瓦台(チョンワデ、大統領府)の586世代(現在50代で、80年代に大学生で民主化学生運動に参加し、60年代生まれ)は信じられないだろうが、彼らの上の世代の金大中が第5共和国の死刑を免れて民主化の主役として華麗に再起したのには日本の役割が大きかった。
金大中は日本の存在感を正確に把握して彼らと友人になろうと努力した大物だった。彼は大統領になると、保守政府が「倭色」として禁止してきた日本映画・歌謡の国内公演を大幅に認めた。これで日本の心をつかんだ後「新韓日宣言」を引き出し、日本は金大中の太陽政策を支持する核心パートナーになった。太陽政策に疑いの視線を向ける米国の心を変えるには対日関係から固めるべきという戦略が的中したのだ。
韓国人の不倶戴天の敵である裕仁天皇の焼香所を訪れて頭を下げた行為もこうした観点で眺める必要がある。金大中は裕仁天皇個人でなく日本に向かって頭を下げた。それが我々の安保と国益につながるという確信のためだったはずだ。日本の首相に頭をどの角度で下げたか、日本大使館の行事に出席したかなどで親日かどうかを判断する民主党の後輩たちを見て、金大中元大統領が墓で舌打ちをする音が聞こえそうだ。
民主党と文在寅(ムン・ジェイン)政権は大韓民国を動かす船長だ。野党時代には保守政権の「親日妄動」を糾弾すればそれまでだったが、今は国益のために精巧な対日外交をする責任が大きい。しかし過去1年半に政府がしたことを見ると、日本の悪口ばかりで行動は何もしない「NATO」(No Action Talk Only)だ。日本を国内政治のために売り飛ばし、支持率維持の道具として使うのならそうすればよい。そうするほど民主党と政府は金大中が残した偉大な韓日関係の遺産をつぶしていくだけだ。対北朝鮮政策も経済も隣国の日本と関係が弱まればいつでも致命傷になることを忘れてはいけない。
カン・チャンホ/論説委員
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