「日光に褪せれば歴史となり、月光に染まれば神話となる」という那林(ナリム)李炳注(イ・ビョンジュ)の名言で前回の記事を終えた(※日本語版への掲載なし)が、実はもう一つある。日光も差し込まず、月光も避けるところに湿気が多ければ陰鬱なイデオロギーがそろそろと這い上がってくる。歴史の恣意的解釈、一歩進んで意図的歴史わい曲がそのようにして生じる。
歴史をイデオロギーに変質させる漏気は主に盲目的愛国心だ。日本が主張した「任那日本府」説が代表的だ。今日では日本の学界の中ですら生命力を失っているところに、あえて説明する価値を感じられない。ただし、警戒しなければならないのは、それほどイデオロギー化された歴史は政治権力に悪用されて人類に致命的な結果を招く可能性が高いという点だ。江戸時代(1603~1867)時から日本の国学者が主張した「南鮮経営論」が、明治維新以降に日本の軍国主義勢力によって韓国侵略と支配を正当化するイデオロギーとして利用されたように。
◆思う存分想像しても、それだけが正しいと信じるのはやめる
他の見方をすれば過去に韓国の学者が「任那」という言葉自体を取り出すことをダブー視して、日本の学者の主張に体系的に反論を展開しなかったこともまた、歴史をイデオロギーと区分できない間違いから始まったのだ。歴史は過去のことなので、後代の歴史解釈は想像力から出発するほかはない。証拠資料が少ないほど想像力に頼らなくてはならない。だが、想像と主張は違う。自分の想像が明白な証拠として立証される前までは仮設として存在するのみだ。その時は異なる想像、すなわち異なる仮設も受け入れなければならない。自分の想像だけ正しく他人の想像は間違っているという主張はごり押しであり独善に過ぎない。明らかな資料があってもその解釈が違っていることもあるので、資料が不足した部分についてはなおさらだ。
浅い知識と怠けた足取りで伽耶寺を訪れながら切実に感じたのがそれだった。思う存分想像するものの、それだけ正しいと信じるのはやめなければならないということだ。もしかしたら見過ごされたり脱落したりしたものがないかよく確認しなければならないが、もし大きくされたり美化されたものはないかも絶えず警戒しなければならないということだ。実際、伽耶は「鉄の王国」といわれているが、人類が鉄を触ったのは伽耶人に先立つことほぼ1500年前。紀元前1200年ごろにはすでに世界のさまざまな地域で鉄器を使っていたことが証明されている。
人類歴史上、最初に鉄器文明を成し遂げたヒッタイト人が鉄製武器を作ったのは紀元前1500年まで遡るということが分かっている。彼らが作った鉄器は鉄鉱石を溶かして作ったのでなく、鉄と不純物が混ざった鉄鉱石の塊りをたたいて作った鍛鉄だった。それでも当時は独歩的な冶金技術であり、これを基にヒッタイト人は鉄器帝国に成長する。4大古代文明のうちメソポタミア文明が一番最初におこったのもヒッタイトの鉄器製造技術の賜物だった。
韓半島(朝鮮半島)に鉄器が入ってきたのも紀元前300年頃だ。中国戦国時代の貨幣である明刀銭が鴨緑江(アムノッカン)中流地域から出土している点から推測し、中国を通じて韓半島に紹介されたとみられる。引き続き紀元前108年、楽浪郡の設置とともに韓半島に鉄器が急速に伝播したというのが定説だ。したがって伽耶の鉄器は当時の韓半島の人々にとって決して新しいものではなかった。だからといって伽耶の鉄器をさげすむべきではないが、独歩的な鉄器だと美化することでもないのだ。(伽耶の鉄製投闘具と馬の鎧、旗竿、環頭大刀など鉄製品の造形美は否定することはできないが。)
民の人生も同じだ。前回の記事で伽耶遊民から新羅の支配勢力に成長した金ユ信(キム・ユシン)一族に言及したが、皆がそんなに運が良いわけでは決してなかった。新羅は伽耶を征服した後、今日の忠州(チュンジュ)地域に地方都市「中原京」を開いて伽耶遊民を移住させた。真興王の寵愛を受けた伽耶琴の名人・于勒(ウルク)さえも新羅の首都である慶州ではない中原京で生涯を終えなければならなかった。伽耶貴族の出身で新羅最初の儒学者であり文章家だった強首(カンス)もまたそうだ。強首は唐の軍人である薛仁貴に当てる文武王(新羅第30代王)の親書を書いて文武王から称賛を受けた。
「強首が文章を作ることを自ら引き受けて書簡で中国と高句麗、百済に意を伝えたところ、よく友好を結ぶ功を成し遂げた。先王が唐に兵力を求めて高句麗と百済を平定したことはたとえ軍事的功労の賜物だったとしても、また文章の助けもあったが、どうして強首の功を疎かにできようか」(『三国史記』<列伝第6>)
それでも強首が新羅十七官等のうち八等に該当する沙〓(〓はにすいに食)という官位に留まったことは、彼自身も告白しているように「中原京沙梁(サリャン)人」であるために違いない。
彼らより身分が低い数多くの伽耶の民は伽耶滅亡後、奴婢やそれに類する身分に転落した。また、多くの人々がそのような運命を避けて外国に亡命した。最も近いのが日本だ。伽耶の時から交流が多かったため異質感もあまりなかっただろう。国家や国民、国境の概念が今日のように確かではなかった時期だっただけに日本の拒否感も大きくなかった。
【コラム】日本各地に残されている韓国古代国家の痕跡(2)
歴史をイデオロギーに変質させる漏気は主に盲目的愛国心だ。日本が主張した「任那日本府」説が代表的だ。今日では日本の学界の中ですら生命力を失っているところに、あえて説明する価値を感じられない。ただし、警戒しなければならないのは、それほどイデオロギー化された歴史は政治権力に悪用されて人類に致命的な結果を招く可能性が高いという点だ。江戸時代(1603~1867)時から日本の国学者が主張した「南鮮経営論」が、明治維新以降に日本の軍国主義勢力によって韓国侵略と支配を正当化するイデオロギーとして利用されたように。
◆思う存分想像しても、それだけが正しいと信じるのはやめる
他の見方をすれば過去に韓国の学者が「任那」という言葉自体を取り出すことをダブー視して、日本の学者の主張に体系的に反論を展開しなかったこともまた、歴史をイデオロギーと区分できない間違いから始まったのだ。歴史は過去のことなので、後代の歴史解釈は想像力から出発するほかはない。証拠資料が少ないほど想像力に頼らなくてはならない。だが、想像と主張は違う。自分の想像が明白な証拠として立証される前までは仮設として存在するのみだ。その時は異なる想像、すなわち異なる仮設も受け入れなければならない。自分の想像だけ正しく他人の想像は間違っているという主張はごり押しであり独善に過ぎない。明らかな資料があってもその解釈が違っていることもあるので、資料が不足した部分についてはなおさらだ。
浅い知識と怠けた足取りで伽耶寺を訪れながら切実に感じたのがそれだった。思う存分想像するものの、それだけ正しいと信じるのはやめなければならないということだ。もしかしたら見過ごされたり脱落したりしたものがないかよく確認しなければならないが、もし大きくされたり美化されたものはないかも絶えず警戒しなければならないということだ。実際、伽耶は「鉄の王国」といわれているが、人類が鉄を触ったのは伽耶人に先立つことほぼ1500年前。紀元前1200年ごろにはすでに世界のさまざまな地域で鉄器を使っていたことが証明されている。
人類歴史上、最初に鉄器文明を成し遂げたヒッタイト人が鉄製武器を作ったのは紀元前1500年まで遡るということが分かっている。彼らが作った鉄器は鉄鉱石を溶かして作ったのでなく、鉄と不純物が混ざった鉄鉱石の塊りをたたいて作った鍛鉄だった。それでも当時は独歩的な冶金技術であり、これを基にヒッタイト人は鉄器帝国に成長する。4大古代文明のうちメソポタミア文明が一番最初におこったのもヒッタイトの鉄器製造技術の賜物だった。
韓半島(朝鮮半島)に鉄器が入ってきたのも紀元前300年頃だ。中国戦国時代の貨幣である明刀銭が鴨緑江(アムノッカン)中流地域から出土している点から推測し、中国を通じて韓半島に紹介されたとみられる。引き続き紀元前108年、楽浪郡の設置とともに韓半島に鉄器が急速に伝播したというのが定説だ。したがって伽耶の鉄器は当時の韓半島の人々にとって決して新しいものではなかった。だからといって伽耶の鉄器をさげすむべきではないが、独歩的な鉄器だと美化することでもないのだ。(伽耶の鉄製投闘具と馬の鎧、旗竿、環頭大刀など鉄製品の造形美は否定することはできないが。)
民の人生も同じだ。前回の記事で伽耶遊民から新羅の支配勢力に成長した金ユ信(キム・ユシン)一族に言及したが、皆がそんなに運が良いわけでは決してなかった。新羅は伽耶を征服した後、今日の忠州(チュンジュ)地域に地方都市「中原京」を開いて伽耶遊民を移住させた。真興王の寵愛を受けた伽耶琴の名人・于勒(ウルク)さえも新羅の首都である慶州ではない中原京で生涯を終えなければならなかった。伽耶貴族の出身で新羅最初の儒学者であり文章家だった強首(カンス)もまたそうだ。強首は唐の軍人である薛仁貴に当てる文武王(新羅第30代王)の親書を書いて文武王から称賛を受けた。
「強首が文章を作ることを自ら引き受けて書簡で中国と高句麗、百済に意を伝えたところ、よく友好を結ぶ功を成し遂げた。先王が唐に兵力を求めて高句麗と百済を平定したことはたとえ軍事的功労の賜物だったとしても、また文章の助けもあったが、どうして強首の功を疎かにできようか」(『三国史記』<列伝第6>)
それでも強首が新羅十七官等のうち八等に該当する沙〓(〓はにすいに食)という官位に留まったことは、彼自身も告白しているように「中原京沙梁(サリャン)人」であるために違いない。
彼らより身分が低い数多くの伽耶の民は伽耶滅亡後、奴婢やそれに類する身分に転落した。また、多くの人々がそのような運命を避けて外国に亡命した。最も近いのが日本だ。伽耶の時から交流が多かったため異質感もあまりなかっただろう。国家や国民、国境の概念が今日のように確かではなかった時期だっただけに日本の拒否感も大きくなかった。
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