「私は赤誠として祖国の独立と自由を回復するために韓人愛国団の一員となり、敵国の首魁を屠戮することを盟誓する」。
日本や満州を行き来していた31歳の青年、李奉昌(イ・ボンチャン、1900-1932)は、中国・上海で白凡・金九(キム・グ)に会った後、1931年12月13日にこうした内容の宣誓文を書いて署名した。手榴弾を両手に持って太極旗の前で記念撮影もした。数日後、中国を離れて日本に渡った李奉昌は翌年1月8日、東京で観兵式を終えて戻った裕仁天皇に向けて手榴弾を投げた。しかしこれは失敗に終わった。馬車はひっくり返ったが、天皇は無事だった。李奉昌は同年9月30日、東京裁判所で死刑を言い渡され、10月10日に市ヶ谷刑務所で処刑されて短い生涯を終えた。
抗日独立文化遺産の李奉昌義士の宣誓文が文化財として登録される。文化財庁は李義士が天皇を処断するという決意を記録した国漢文混用の宣誓文、金九先生に送った「李奉昌義士親筆の手紙と封筒」「李奉昌義士義挙資金送金証書」の3件を文化財として登録すると12日、発表した。特に宣誓文は李義士の代表的な抗日闘争遺物で、金九先生が李奉昌義士を安重根(アン・ジュングン)義士の弟・安恭根(アン・ゴングン)の家に連れていって作成したと伝えられている。
李義士の親筆の手紙と封筒には、1931年12月24日に李義士が金九先生に義挙資金を要請する内容がある。手紙で李義士は義挙実行計画を暗示し、「来月に物品が売れるだろう(…)心配しないでほしい」と書いた。「義挙実行」を「物品販売」という言葉に変えたのだ。義挙資金送金証書は1931年12月28日に金九先生が中国上海から東京の李奉昌義士に100円を送ったことを表している。
文化財庁近代文化課のチョン・インヤン事務官は「金九先生の『白凡逸志』には李奉昌義士に義挙資金を3回にわたり送ったという内容が詳しく出ている」とし「現在、李奉昌義士の遺物がほとんど残っていないという点で、この資料は文化財として価値が高い」と説明した。
一方、李奉昌義士の義挙は同年4月29日の尹奉吉(ユン・ボンギル)義士の上海義挙の起爆剤となり、大韓民国臨時政府をはじめとする抗日独立運動戦線に新たな活力を与えた歴史的な事件と評価される。
文化財庁はこれと共に独立活動家の万海・韓龍雲(ハン・ヨンウン)先生(1879-1944)のソウル城北洞(ソンブクトン)の尋牛荘を史跡として登録する予定だ。尋牛荘は万海僧侶が1933年に建立して余生を送った家で、独立運動活動と愛国志士との交流などに関する遺物が残っているところだ。
文化財庁近代文化財課のキム・ヨンシク事務官は「満州で独立運動をし、監獄生活を送った金東三(キム・ドンサム)先生(1878-1937)が1937年3月に西大門(ソデムン)刑務所で殉国した時、遺体を尋牛荘に移して五日葬をしたという記録がある」と伝えた。独立活動家が集まった空間だったということだ。
「尋牛」とは「牛を探す」という意味で、仏教で「失った私(本心)を探す」、すなわち悟りの域にいたる過程を表す言葉だ。表札は共に独立運動をした書道家、呉世昌(オ・セチャン)先生(1864-1953)が書いた。
韓屋を建てる際、南向きが好まれるが、尋牛荘は北東向きであるのが特徴だ。韓龍雲先生は朝鮮総督府がある方向を避け、このように北向きの場所を選択したと伝えられている。李奉昌義士の宣誓書遺物、韓龍雲先生の尋牛荘は30日間の予告期間と文化財委員会の審議を経て、それぞれ文化財と史跡として登録される。
日本や満州を行き来していた31歳の青年、李奉昌(イ・ボンチャン、1900-1932)は、中国・上海で白凡・金九(キム・グ)に会った後、1931年12月13日にこうした内容の宣誓文を書いて署名した。手榴弾を両手に持って太極旗の前で記念撮影もした。数日後、中国を離れて日本に渡った李奉昌は翌年1月8日、東京で観兵式を終えて戻った裕仁天皇に向けて手榴弾を投げた。しかしこれは失敗に終わった。馬車はひっくり返ったが、天皇は無事だった。李奉昌は同年9月30日、東京裁判所で死刑を言い渡され、10月10日に市ヶ谷刑務所で処刑されて短い生涯を終えた。
抗日独立文化遺産の李奉昌義士の宣誓文が文化財として登録される。文化財庁は李義士が天皇を処断するという決意を記録した国漢文混用の宣誓文、金九先生に送った「李奉昌義士親筆の手紙と封筒」「李奉昌義士義挙資金送金証書」の3件を文化財として登録すると12日、発表した。特に宣誓文は李義士の代表的な抗日闘争遺物で、金九先生が李奉昌義士を安重根(アン・ジュングン)義士の弟・安恭根(アン・ゴングン)の家に連れていって作成したと伝えられている。
李義士の親筆の手紙と封筒には、1931年12月24日に李義士が金九先生に義挙資金を要請する内容がある。手紙で李義士は義挙実行計画を暗示し、「来月に物品が売れるだろう(…)心配しないでほしい」と書いた。「義挙実行」を「物品販売」という言葉に変えたのだ。義挙資金送金証書は1931年12月28日に金九先生が中国上海から東京の李奉昌義士に100円を送ったことを表している。
文化財庁近代文化課のチョン・インヤン事務官は「金九先生の『白凡逸志』には李奉昌義士に義挙資金を3回にわたり送ったという内容が詳しく出ている」とし「現在、李奉昌義士の遺物がほとんど残っていないという点で、この資料は文化財として価値が高い」と説明した。
一方、李奉昌義士の義挙は同年4月29日の尹奉吉(ユン・ボンギル)義士の上海義挙の起爆剤となり、大韓民国臨時政府をはじめとする抗日独立運動戦線に新たな活力を与えた歴史的な事件と評価される。
文化財庁はこれと共に独立活動家の万海・韓龍雲(ハン・ヨンウン)先生(1879-1944)のソウル城北洞(ソンブクトン)の尋牛荘を史跡として登録する予定だ。尋牛荘は万海僧侶が1933年に建立して余生を送った家で、独立運動活動と愛国志士との交流などに関する遺物が残っているところだ。
文化財庁近代文化財課のキム・ヨンシク事務官は「満州で独立運動をし、監獄生活を送った金東三(キム・ドンサム)先生(1878-1937)が1937年3月に西大門(ソデムン)刑務所で殉国した時、遺体を尋牛荘に移して五日葬をしたという記録がある」と伝えた。独立活動家が集まった空間だったということだ。
「尋牛」とは「牛を探す」という意味で、仏教で「失った私(本心)を探す」、すなわち悟りの域にいたる過程を表す言葉だ。表札は共に独立運動をした書道家、呉世昌(オ・セチャン)先生(1864-1953)が書いた。
韓屋を建てる際、南向きが好まれるが、尋牛荘は北東向きであるのが特徴だ。韓龍雲先生は朝鮮総督府がある方向を避け、このように北向きの場所を選択したと伝えられている。李奉昌義士の宣誓書遺物、韓龍雲先生の尋牛荘は30日間の予告期間と文化財委員会の審議を経て、それぞれ文化財と史跡として登録される。
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