◆旧日本軍死傷規模、韓日間の集計に差
究明すべき事実もある。青山里戦闘の旧日本軍の被害規模だ。青山里戦闘は独立運動史で輝かしい武装闘争と評価されている。韓国側の資料は旧日本軍の被害は加納連隊長を含めて1200-3000人、負傷者を3300人と推定している。具体的に見ると、朴殷植先生が1920年に中国上海で出した『朝鮮独立運動之血史』は「加納連隊長以下900余-1600余人」と記録している。詩人の趙芝薫(チョ・ジフン)先生が1864年の甲申政変から1945年の光復(解放)まで近代民族運動史を整理して1964年に出した『韓国民族運動史』は「加納連隊長以下3300人」としている。中央選管委が1964年に出した『大韓民国政党史』は「1000余人」、国防部戦史編纂委員会が1967年に出した『朝鮮戦争史』は「戦傷3300人」とそれぞれ記録している。当時、一部の日本の新聞は旧日本軍の被害規模を「加納連隊長など900余人」と報道した。
しかし日本側の公式資料の被害規模はこれとは全く違う。日本陸軍第19師団司令部が当時、朝鮮人と中国人の死傷者を調査して1921年に報告した『間島事件朝支人死傷者調』は、旧日本軍の被害を戦死11人、負傷24人と記録した。旧日本軍の朝鮮軍(朝鮮駐留日本軍)司令部が編纂した『間島出兵史』も被害は少なかったとしている。1868年の明治維新以降1945年に終わった太平洋戦争まで、すべての日本人戦死者246万6584人(戦犯含む)を合祀した靖国神社の名簿でも青山里戦闘戦死者は11人だけだ。
900-3300人と11人のうちどちらが正確なのだろうか。参考に北朝鮮では青山里戦闘を独立運動史に含めていない。1912年生まれの金日成(キム・イルソン)主席が8歳の時であり、金主席と関係がないからだ。
◆100周年、歴史の傷を癒やす契機に
戦死したという「加納連隊長」が実存人物かどうかも争点だ。朴殷植先生は『朝鮮独立運動之血史』で、日本領事秘密報告書を根拠に「加納連隊長」という人物が当時戦死したと唯一実名で記録した。これに対する日本側の立場も異なる。日本側は当時「領事報告書」というもの自体の存在が確認されていないと主張する。「加納連隊長」といえる実存人物として当時の騎兵27連隊長の加納信暉大佐がいたが、彼は戦死者名簿になく、1922年まで生存して連隊長として勤務したという。
これはもう一つの日本の歴史歪曲だろうか。当時の状況を正確に究明して真実を明らかにする作業が求められる。100年が過ぎても帝国主義侵略の傷あとは依然として韓国人の胸に残っている。100周年が歴史の痛みを癒やし、新たに歴史の車輪を回す案を悩むきっかけになることを望む。
「肉弾血戦で独立」 100年前の2・1大韓独立宣言 武装独立闘争の口火に(1)
「肉弾血戦で独立」 100年前の2・1大韓独立宣言 武装独立闘争の口火に(2)
究明すべき事実もある。青山里戦闘の旧日本軍の被害規模だ。青山里戦闘は独立運動史で輝かしい武装闘争と評価されている。韓国側の資料は旧日本軍の被害は加納連隊長を含めて1200-3000人、負傷者を3300人と推定している。具体的に見ると、朴殷植先生が1920年に中国上海で出した『朝鮮独立運動之血史』は「加納連隊長以下900余-1600余人」と記録している。詩人の趙芝薫(チョ・ジフン)先生が1864年の甲申政変から1945年の光復(解放)まで近代民族運動史を整理して1964年に出した『韓国民族運動史』は「加納連隊長以下3300人」としている。中央選管委が1964年に出した『大韓民国政党史』は「1000余人」、国防部戦史編纂委員会が1967年に出した『朝鮮戦争史』は「戦傷3300人」とそれぞれ記録している。当時、一部の日本の新聞は旧日本軍の被害規模を「加納連隊長など900余人」と報道した。
しかし日本側の公式資料の被害規模はこれとは全く違う。日本陸軍第19師団司令部が当時、朝鮮人と中国人の死傷者を調査して1921年に報告した『間島事件朝支人死傷者調』は、旧日本軍の被害を戦死11人、負傷24人と記録した。旧日本軍の朝鮮軍(朝鮮駐留日本軍)司令部が編纂した『間島出兵史』も被害は少なかったとしている。1868年の明治維新以降1945年に終わった太平洋戦争まで、すべての日本人戦死者246万6584人(戦犯含む)を合祀した靖国神社の名簿でも青山里戦闘戦死者は11人だけだ。
900-3300人と11人のうちどちらが正確なのだろうか。参考に北朝鮮では青山里戦闘を独立運動史に含めていない。1912年生まれの金日成(キム・イルソン)主席が8歳の時であり、金主席と関係がないからだ。
◆100周年、歴史の傷を癒やす契機に
戦死したという「加納連隊長」が実存人物かどうかも争点だ。朴殷植先生は『朝鮮独立運動之血史』で、日本領事秘密報告書を根拠に「加納連隊長」という人物が当時戦死したと唯一実名で記録した。これに対する日本側の立場も異なる。日本側は当時「領事報告書」というもの自体の存在が確認されていないと主張する。「加納連隊長」といえる実存人物として当時の騎兵27連隊長の加納信暉大佐がいたが、彼は戦死者名簿になく、1922年まで生存して連隊長として勤務したという。
これはもう一つの日本の歴史歪曲だろうか。当時の状況を正確に究明して真実を明らかにする作業が求められる。100年が過ぎても帝国主義侵略の傷あとは依然として韓国人の胸に残っている。100周年が歴史の痛みを癒やし、新たに歴史の車輪を回す案を悩むきっかけになることを望む。
「肉弾血戦で独立」 100年前の2・1大韓独立宣言 武装独立闘争の口火に(1)
「肉弾血戦で独立」 100年前の2・1大韓独立宣言 武装独立闘争の口火に(2)
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