最近放送が終わったドラマ『ミスターサンシャイン』で描かれた大韓帝国陸軍の姿は烏合の衆に近い。むしろ正規軍よりも義兵に加担した砲手の実力がはるかに優れ、ドラマではその活躍に重点が置かれている。
しかし朝鮮軍の射撃術はかつて東アジア、いや、もしかすると世界でも認められるほどの実力を備えていた時代もあった。ただ、最初は非常に弱く、初めて目にした時も友好的なものではなかった。
◆壬辰倭乱、朝鮮が鳥銃に目を開く
「倭奴は戦闘に慣れていて素早く進軍したが、彼らが勝利をつかんだのは実際、この鳥銃のためだ」(李ス光、『芝峯類説』)
飛ぶ鳥も撃ち落とすとして名付けられた鳥銃は壬辰倭乱(文禄の役)当時、朝鮮軍には恐怖の対象だった。矢と違って当たれば即死することが多いうえ、大きな音が響くため、数百人が続けて鳥銃を撃てばまさに「魂飛魄散」だったという。
鳥銃兵を前面に出して日本軍は破竹の勢いで攻めた。1592年4月13日、小西行長が率いる第1軍1万8000人が釜山浦に上陸し、翌日に3時間で釜山鎮城を占領し、その翌日には2時間で東莱城を攻撃して陥落させた。続いて忠州(チュンジュ)弾琴台(タングムデ)で申リプ(シン・リプ)が率いる朝鮮最精鋭部隊を全滅させ、5月3日に漢陽(ハンヤン)に入城したのは韓半島(朝鮮半島)に上陸してわずか20日目のことだった。このため朝鮮指導層では戦争で負けないためには必ず鳥銃を確保する必要があるという認識が形成され始めた。
翌年の1593年2月から朝鮮は訓練都監と軍機司で鳥銃の開発に着手した。鳥銃を撃つ方法も教え、武科科目に鳥銃分野を新設した。また開発するうえで参考にする「サンプル」確保にも注力した。
「これから戦場で得た鳥銃はむやみに使用せず、すべて集めて各陣にこれを学習させる。そしてそれを体得した人たちがそのほかの人に誠意を持って教えるようにする」 (『宣祖実録』26年11月)
1594年には柳成龍(ユ・ソンリョン)が都提調となり、鳥銃と火薬製造の責任を負うことになった。早くから鳥銃の重要性を認識して大きな関心を見せた、当時の数少ない指導層だったからだ。「『紀効新書』(明の兵法書)によると、鳥銃は命中する兎の数が弓矢の5倍、快槍の10倍にもなる」(『西厓集』)
海上で戦った李舜臣(イ・スンシン)も一時は鳥銃を研究した。軍官らに鳥銃を研究させ、1593年8月には日本の鳥銃と似た正鉄銃筒を作って朝廷に進呈したりもした。しかし性能が良くなかったという。わずか4カ月後、宣祖は「我々が作った鳥銃は粗悪で使えない。もう倭人の精密な鳥銃を基準にして、そのまま製造しなければいけない」と述べた。結局、開発に限界を感じた朝鮮の朝廷は発想を転換することになった。
◆倭人捕虜を鳥銃開発に投入
宣祖は投降した倭人から鳥銃と火薬の製造法を積極的に受け入れ、技術の開発に拍車を加えるよう命じた。独自で開発できないため技術者を確保しようという方向を定めたのだ。
「今回捕まえた倭人が煙硝を作る方法を知っているという。この倭人は殺しても得るものがないため命を助けて、すぐに職人を連れていって、その方法をすべて把握するように兵曹判書の李恒福(イ・ハンボク)に密かに伝えるべき」 (『宣祖実録』26年3月11日)
今でいうと国防長官にあたる李恒福に密命を出し、敵軍の捕虜を処刑せず鳥銃に必要な技術を引き出すよう指示したのだ。3カ月後には処遇に言及した。
「捕虜の倭人2人のうち1人は煙硝を作ることができ、1人は鳥銃を作ることができるというので、煙硝を作る者は寧辺(ヨンビョン)に送って秋から始めれば多くの煙硝ができるはずで、鳥銃を作る者は鉄が生産される村に送れば多くの鳥銃を作り出せるだろう。その倭人にまだ鎖をはめているというが、殺さないと決めたのならそうする必要はなく、鎖を解くのはどうか」(『宣祖実録』26年6月16日)
「倭人が投降してきたので保護するしかない。妙術を獲得できるなら敵国の技術は我々の技術だ。外敵だからといってその技術を嫌って身につけることを怠けてはならず、着実にするよう備辺司に伝えるべき」(『宣祖実録』 27年7月29日)
加藤清正の配下の将帥として戦い、朝鮮に帰化した金忠善(キム・チュンソン、沙也可)も活躍した。彼の息子、キム・ギョンウォンによると、「父(金忠善)が投降した後、1693年に朝廷は訓練庁を設置し、降倭(降伏した倭軍)300人を集めて火薬を作り、火砲を作った」という。このように朝鮮の鳥銃開発の成功の裏には投降した日本人のノウハウ伝授があった。
【コラム】ロシアも制圧した朝鮮鳥銃部隊、なぜ消えたのか(2)
しかし朝鮮軍の射撃術はかつて東アジア、いや、もしかすると世界でも認められるほどの実力を備えていた時代もあった。ただ、最初は非常に弱く、初めて目にした時も友好的なものではなかった。
◆壬辰倭乱、朝鮮が鳥銃に目を開く
「倭奴は戦闘に慣れていて素早く進軍したが、彼らが勝利をつかんだのは実際、この鳥銃のためだ」(李ス光、『芝峯類説』)
飛ぶ鳥も撃ち落とすとして名付けられた鳥銃は壬辰倭乱(文禄の役)当時、朝鮮軍には恐怖の対象だった。矢と違って当たれば即死することが多いうえ、大きな音が響くため、数百人が続けて鳥銃を撃てばまさに「魂飛魄散」だったという。
鳥銃兵を前面に出して日本軍は破竹の勢いで攻めた。1592年4月13日、小西行長が率いる第1軍1万8000人が釜山浦に上陸し、翌日に3時間で釜山鎮城を占領し、その翌日には2時間で東莱城を攻撃して陥落させた。続いて忠州(チュンジュ)弾琴台(タングムデ)で申リプ(シン・リプ)が率いる朝鮮最精鋭部隊を全滅させ、5月3日に漢陽(ハンヤン)に入城したのは韓半島(朝鮮半島)に上陸してわずか20日目のことだった。このため朝鮮指導層では戦争で負けないためには必ず鳥銃を確保する必要があるという認識が形成され始めた。
翌年の1593年2月から朝鮮は訓練都監と軍機司で鳥銃の開発に着手した。鳥銃を撃つ方法も教え、武科科目に鳥銃分野を新設した。また開発するうえで参考にする「サンプル」確保にも注力した。
「これから戦場で得た鳥銃はむやみに使用せず、すべて集めて各陣にこれを学習させる。そしてそれを体得した人たちがそのほかの人に誠意を持って教えるようにする」 (『宣祖実録』26年11月)
1594年には柳成龍(ユ・ソンリョン)が都提調となり、鳥銃と火薬製造の責任を負うことになった。早くから鳥銃の重要性を認識して大きな関心を見せた、当時の数少ない指導層だったからだ。「『紀効新書』(明の兵法書)によると、鳥銃は命中する兎の数が弓矢の5倍、快槍の10倍にもなる」(『西厓集』)
海上で戦った李舜臣(イ・スンシン)も一時は鳥銃を研究した。軍官らに鳥銃を研究させ、1593年8月には日本の鳥銃と似た正鉄銃筒を作って朝廷に進呈したりもした。しかし性能が良くなかったという。わずか4カ月後、宣祖は「我々が作った鳥銃は粗悪で使えない。もう倭人の精密な鳥銃を基準にして、そのまま製造しなければいけない」と述べた。結局、開発に限界を感じた朝鮮の朝廷は発想を転換することになった。
◆倭人捕虜を鳥銃開発に投入
宣祖は投降した倭人から鳥銃と火薬の製造法を積極的に受け入れ、技術の開発に拍車を加えるよう命じた。独自で開発できないため技術者を確保しようという方向を定めたのだ。
「今回捕まえた倭人が煙硝を作る方法を知っているという。この倭人は殺しても得るものがないため命を助けて、すぐに職人を連れていって、その方法をすべて把握するように兵曹判書の李恒福(イ・ハンボク)に密かに伝えるべき」 (『宣祖実録』26年3月11日)
今でいうと国防長官にあたる李恒福に密命を出し、敵軍の捕虜を処刑せず鳥銃に必要な技術を引き出すよう指示したのだ。3カ月後には処遇に言及した。
「捕虜の倭人2人のうち1人は煙硝を作ることができ、1人は鳥銃を作ることができるというので、煙硝を作る者は寧辺(ヨンビョン)に送って秋から始めれば多くの煙硝ができるはずで、鳥銃を作る者は鉄が生産される村に送れば多くの鳥銃を作り出せるだろう。その倭人にまだ鎖をはめているというが、殺さないと決めたのならそうする必要はなく、鎖を解くのはどうか」(『宣祖実録』26年6月16日)
「倭人が投降してきたので保護するしかない。妙術を獲得できるなら敵国の技術は我々の技術だ。外敵だからといってその技術を嫌って身につけることを怠けてはならず、着実にするよう備辺司に伝えるべき」(『宣祖実録』 27年7月29日)
加藤清正の配下の将帥として戦い、朝鮮に帰化した金忠善(キム・チュンソン、沙也可)も活躍した。彼の息子、キム・ギョンウォンによると、「父(金忠善)が投降した後、1693年に朝廷は訓練庁を設置し、降倭(降伏した倭軍)300人を集めて火薬を作り、火砲を作った」という。このように朝鮮の鳥銃開発の成功の裏には投降した日本人のノウハウ伝授があった。
【コラム】ロシアも制圧した朝鮮鳥銃部隊、なぜ消えたのか(2)
この記事を読んで…